幾原邦彦『少女革命ウテナ』(1997)35-最終39話。35話、ニンジンという「エサ」を薔薇の定位置である胸ポケットに入れて、暁生名義のプレゼント(エサである)をウテナに渡す冬芽。ニンジンはその後登場する馬をも準備しており、暴れ馬の記憶さえも連れてくるという見事な小道具として機能していた。「卵の殻を破らねば〜」といういつもの台詞を省いた生徒会エレベータバンクも新鮮。記者会見モチーフのフラッシュ&マイクによる演出と、裸体化による心中の開示がよく噛み合っていた。非戦闘回。
36話、冬芽の運転するバイクのサイドカーに乗りながら「支配」を拒否する西園寺の首元で首輪を光らせる手腕。「プレイボーイ」の冬芽にストレートな告白をさせるギャップ演出。そしてそんな彼の決闘時の相棒が西園寺であることのアツさ。燃えた。決着後の寝室で「もう、きみを狙う奴はだれもいないよ」と語りかけるウテナに対して、「ええ、」と返すアンシーのながいながい間がおそろしすぎるし、直後にウテナにアンシーと暁生の関係を目撃させるのも凶悪。
つづく37話でも、ウテナが暁生をデートに誘う際に写真撮影時以来のチュチュ経由のアンシーによる拒絶が飛びだし、不穏さが前景化する。そんななか、ウテナがミッキーと樹璃と会話を交わしながらバドミントンをするシーンの安らかさが際立っていた。ボールの軌道がハートを描くトライアングル! ウテナと七実との和解(?)も起こり、ここが終結に至るまでのさいごの緩衝地帯であることが察せられる。
冒頭から絶対運命黙示録が流れだす38話では、決闘シーンにおいてきょうれつな画面をつくりだしていた「机」と「車」が連続で展開され、集大成のバトルであることが演出的にも示される。次回予告にははじめて影絵少女が登場し、「最終回」の言葉がその口から発される。
最終話はオープニングなしの導入から胸をわしづかみにされる。「女の子」だから王子様になれないというジェンダーによる呪縛を執拗に描き、さらにはメリーゴーランドという同じ場所を廻りつづける舞台装置に「かつての王子様」を搭乗させて、ウテナに対して呪いの言葉をかけつづけるという悪夢めいた演出がちょうぜつに光っていた。「世界の殻」を破ることが(登場人物たちの手によって)目指されていた本作が、単にウテナにジェンダー規範を突きやぶらせるかたちで幕を閉じるのではなく、「他者の心にカンメイを起こす」ことこそが「カクメイ」であると言いなおすさまは圧巻だった。自らを縛っていたくびきから身を逸らし、「ウンメイ」にはじめて背く(そう、エンディングの彼女はわれわれに「うしろすがた」を見せつづけるのである)彼女が向かう先が、「かつて(永遠)」ではなく「いつか(未来)」であるところにいたく「カンドウ」した。あとはわれわれも「ウンドウ」をするだけである。世界を革命する力を!
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磯光雄『地球外少年少女』(2022)2-3話。おもしろい。2話、競い合う地球育ちと宇宙育ちの少年たちのあいだで、徒歩の速度に差異がでる演出がよかった。3話では、空気漏れから間一髪で「よくわからないチューブのなか」に退避した折、「やるべきことをやるわ!」と何よりもまっさきに配信ライブをはじめる美衣奈が、エクストリーム自殺(?)をする配信者の似姿に見えておもしろかった(?)。テクノロジー加速主義の登矢と、西欧文明イデオローグの大洋の衝突が、陰謀論者(那沙)によって仲立ちされていくのか?とワクワクする。いまの戦争の構造をかさねあわせることもできるんじゃないか? ぜんぶ観たらすでに視聴済であるOの話を聞きたい。
夜、ポークストロガノフ。豚バラ、玉ねぎ、ニンジン、ピーマン。砂糖、塩、ブラックペパー、酒、醤油、ケチャップ、中濃ソース、コンソメ、ローレル。うまい。
アップルミュージックで流れてきたmizuirono_inu「change」、冒頭の「復讐してわからせてやるためなんだ。/「あーそうですか」/それだけが生きる意味になりえるって、16グラムも言ってたんだよ/真に受けたメンヘラ2人はお互いに嘘しかつかない」にわらう。
新調した眼鏡を取りにゆく。度数を上げたわけでもないのにレンズの端がゆがんで見え、ウッとなる。帰りの車内で妹に目脂がついていることを指摘され爆笑する。
戦争、「国家」をどうとらえるか。ネイション・ステートのあいだに/を引けるかということだ。廣瀬純の以下のついについて同人会議でもすこし触れたのだが、ステートなんてどうでもいい左翼のおれは全同意だと思いなおした(「バイデンの戯言」が何を差すのかはしらない)。国なんて投げだしてしまえばいい(だが「郷土」は?)。刹那・F・セイエイの「俺がガンダムだ」というアティテュードを、ステイティストではなくナショナリストの叫びとして聴くこと?
反対すべきは、ロシアによるウクライナ侵攻ではなく、ロシア国家によるロシア住民の戦争への動員であり、ウクライナ国家によるウクライナ国民の戦争への動員だ。ウクライナ住民を戦争暴力に曝すゼレンスキーは、プーチンと同様に批判されなければならない。我々はバイデンの戯言を共有してはならない。