ココモレのヒンカリ

 オウリー・パークの蝶番に蜘蛛の巣が張ってあったとベニマルが気づいたのは2月の頃で、それを思いだしてパルに伝えたのはもう桜も散った5月も末のことだった。クライシアン・ガーデンの畑ではすでにねずみ狩りがはじまっており、ブラキオ・ブリッジの下では〈ガーディアンズ〉の面々が来月の「試合」に備えたミーティングを幾度もかさねたあとだった。何をいまさらとパルはポテトフライをグレープソーダで流しこみながら小刻みにうなずき、窓から見える子どもたちの手ににぎられた積み木のブロックのようなものに目を奪われていた。角の丸い、なめらかなその矩形は、それぞれ赤青黄の原色をまとい、ちいさな手のひらのなかでじっと身を潜めている。歯間につまった芋の皮に小指の爪をひっかけながら、あれはなんだ?とベニマルに尋ねると、一瞥して積み木じゃないかとつまらない回答がかえってきて、パルはいらだって親指についた塩の粒を人差し指と中指を使って彼の眉間めがけてはじきとばしてやった。おいやめろよと首を振るってベニマルはわらい、ひとしきりじゃれあったあと、カップの底に残った氷水をストローでずずと吸った。外ではまだるっこい日差しが街路を照らし、そのにぶいかがやきのなかを太った男が自転車にまたがって過ぎていく。荷台には古雑誌がちいさな塔のようにそびえており、薄いページの端がびろびろと風にはためいていた。目を離すと、通りの反対に立つプラタナスが緑をやわらかくちらしているのが目に入り、パルはその木陰で居眠りをしているあの斑犬になりたいと思った。

 メアリ・ブローチが小ぶりのオニオンを刻んで夕食の準備をしていたころ、ペアリア・リバーの岸辺ではフィル・ブローチが小石に蹴躓いて地面に倒れるところだった。かわいた土煙があたりに立ち、フィルの手からはビビッドブルーの立方体がすべるように投げだされた。先を歩いていたジョルジオ・ブラウンがふりかえると同時にその青のブロックが自分の靴にぶつかって止まった。たおれたフィルと、足もとにころがる青い固形物を見比べて、ジョルジオはまずフィルに手をのばした。痛みに顔をしかめているフィルを引っ張り上げながら、ジョルジオはもう片方の手ににぎった黄色いブロックが熱を帯びはじめていることに気づき、急がないとまずそうだぞと砂で汚れたカーゴパンツをはたいてやる。無言でうなずくフィルはすぐさま自分のブロックを拾いあげ、走ろうとジョルジオを先導して駆けだした。川面で一匹の魚が跳ね、傾きはじめた太陽の光が波の上をころがっていった。そこから何ブロックも離れた上流では、〈アンチマックス〉のリーダーであるキール・エルクールが〈ガーディアンズ〉のメンバーに囲まれて殴打されていた。血のついた拳がふたたび鼻を砕き、鳩尾を突き、キールはあえぎながら口のなかにたまった血をだらりと吐きだした。乾いた砂の上に赤黒い血溜まりができ、あたまを掴まれ膝蹴りを喰らったキールがその上に倒れこむのは時間の問題だった。

 1匹の痩せねずみがマチルダ・ストリートを横断しようとちいさな4つ脚でアスファルトの上をもがいているとき、ココモレの駐車場では1台の車が炎上していた。もうもうと黒煙が空にあがり、雲ひとつない快晴のなかに禍々しい1本の尖塔が打ち立てられていた。周囲に集まった野次馬のなかには〈アンチマックス〉のメンバーもいれば〈ガーディアンズ〉の幹部もまじっていたが、たがいにその存在には気づくことなく、眼前の火柱に釘づけとなっていた。車の持ち主であるライナー・オッペンハイマーは、ちょうどさいごのヒンカリにナイフを差し入れるところで、対面に座ったメアリは洋梨のタルトを、隣に座ったフィルは木苺のパウンドケーキをとびきりの笑顔で口に運んでいた。おいしいか、とライナーが訊くと、おいしい!とオウムのように応えたフィルの後ろの席では、ひとりの男が身をちぢめ、凍えるようにふるえていた。男のまえにはボロになった新聞と、水の入ったコップだけが置いてあり、かれこれもう3時間、男はがたがたと身をふるわせつづけていた。男とフィルたちをわけ隔てるソファの背はおおきく、たがいがたがいを目視で認識することはなかったが、ときおり男の足がテーブルあたって起こる激突音が、カチャカチャと鳴るカトラリーと皿がぶつかる音にまじって3人の座るテーブルまできこえてきていた。ライナーは、これは本場では手づかみで食うらしいが、とヒンカリにフォークを刺したまま口をうごかし、つうと垂れる肉汁が柄を伝って指まで降りてきたのを確認しながら、そんなことしたら熱々のコイツが口のなかで爆発するだろうにな、とそのしずくを舌でなめとってから、ヒンカリの皮に歯を立てた。メアリはその仕草を見つめながら自身のからだが熱くなるのを感じ、その熱の帯びた芯棒を射抜くようにライナーの目がぎらとひかったのを見逃さなかった。

 ホイル診療院のちいさな門から足を踏みだした途端、くしゃくしゃににぎりつぶされたビールの空き缶が左から飛んできて、キールはすんでのところで身をかわした。見ると、7、8人の〈ガーディアンズ〉の面々がならんで立っており、ちょうど2投目、3投目が自分に向かって投げられるところで、キールは咄嗟に腕を盾にしてそれを防いだが、こんどは後ろから羽交い締めにされて抵抗できぬままにあたまにずだ袋を被せられた。その光景を双眼鏡で見ていたパルは空いた手でビスケットの袋に手を差しこみ、いくら指をうごかしても目当てのものがないことに憤慨してその手で拳をつくって机をたたいた。そのはずみにゲージの遊具の留め金がはずれ、おがくずのなかで寝ていたねずみはその下敷きとなってちいさな悲鳴をあげた。騒々しいなとベニマルが両手にウォッカとグラスをもって部屋に入ってきたのでパルは双眼鏡から目を離し〈アンチマックス〉の大将がまたやられていてね、と注がれた酒を一気にのどに流しこんでその焼けつくようなアルコールのうねりをじっと味わい、また双眼鏡に目をもどした。ベニマルはほこりのつもった本の山のなかから1冊の本を抜きとってぱらぱらめくったあと、ゲージのなかでもがいている小動物の存在に気づき、ちいさな扉のなかに手をつっこんで身うごきのとれないそいつを助けてやった。今週末の「試合」はなくなるのかとねずみを撫でながらパルにたずねると、いや、それが〈アンチマックス〉のやつらまだやる気なんだよ、と振りむき、リベンジマッチとかいってさ、と語尾が切れるよりもはやくまたグラスに口をつけた。

 ブラキオ・ブリッジの護岸されたたもとに「WE WILL LOVE YOU TILL THE END」と真っ赤なスプレーでへたくそなグラフィティが書かれるのをジョルジオ・ブラウンは中洲の柱の陰から見ていた。Wの輪郭をかたちづくる最初のひとふきから、ふくらんだDの尻を閉じるみごとなフィニッシュまで、いっときも目を離さずにその描画を見つめていた唯一の目撃者であったが、彼はそのことを誰に伝えるでもなく、1週間後に死体となって橋の上から吊るされた。このわずか168時間のあいだに街はずいぶんと様変わりした。クライシアン・ガーデンはねずみたちの帝国と化し、マチルダ・ストリートにはアスファルトを突き破って熱帯に生えるような見たこともない植物が鬱蒼と生い茂り、ペアリア・リバーは一滴のしずくも見つからない干上がった窪みに変わり果ててしまった。メアリの子宮にはあたらしい命が宿っていたが、そのことをしらぬまま街の北半分を覆った火災によってベッドの上で焼け死に、命からがら生き延びたフィルのまわりには同じような年端もいかない子どもたちだけが泣き喚いて突っ立っていた。予定通り行われた〈ガーディアンズ〉と〈アンチマックス〉の「試合」では、ボールだけでなく、刃物や銃弾、爆弾が飛び交って、両チーム、観客、会場のスタッフなどが数百数千単位で指が飛んだり目が潰れたりからだが真っ二つになったりした。パルの家に置かれていたゲージは大きな地震が起きた際にテーブルから落下し、さらに倒れてきた本棚によってひしゃげ、ぺしゃんこになったのだが、ベニマルによってマリウスと名づけられていたねずみはそこからなんとか這いだし、つかの間の自由を味わうも、割れた窓から侵入してきた蛇に丸呑みにされ、みじかい生涯を終えた。すさまじい余震と煙のなかを突き抜けるようにパルは南に向かって車を走らせ、途中ベニマルの家が焼け落ちているのにショックを受けるが、迫りくる炎のために車を止めることもできず、夜通し亀裂の入った道を疾走しつづけた。

 オウリー・パークの蝶番から蜘蛛の巣が取り払われたのはそれから8年が過ぎた頃だった。フィル・ブローチは持ち前の勇敢さでその誰にも見向きされない古ぼけた小屋へとちいさな懐中電灯と長い柄箒だけを持って立ち入り、数カ月かけて小動物や虫たちの隠れ家となっていたこの場所をささやかなコミュニティスペースとしてよみがえらせた。この地にとどまって生活をしているひとは火災が起きる以前と比較すれば50分の1ほどにまで減っていたが、それでも自らの生まれた土地に住みつづけたいという想念のつよさでもっておたがいに助けあい、連帯しながら人生を送っていた。かつてマチルダ・ストリートだったエムエス地区は熱帯の果物が無数に実る自由市場となっており、災禍から逃れた数少ない建物のひとつであるホイル診療院は、孤児や家が焼け落ちてしまったひとたちのアサイラムとしていまに至るまで人々の命をつなぐ役目を果たしてきた。この街唯一の娯楽だったといってもいい「試合」も、ようやく今年になって準備会が発足され、〈キリングマウス〉と〈ファイアマンズ〉というふたつのチームが結成されることとなった。年末には開幕戦が開催される予定だ、とそのちいさな記事には書かれており、別人のように痩せ細って髭を生やしたベニマルは、また同じことがくりかえされていると新聞をにぎりしめ、がたがたとからだをふるわせはじめた。彼の座るひとつ隣の座席では、親子のような3人組がたのしげにランチを囲んでおり、そのうちの父親らしき男がヒンカリの突端を指でもちあげ、これはこうやって食べるんだぞと対面に座る少年に向かって教えさとしていた。窓の外では太った男が古雑誌を塔のようにして荷台に積んだ自転車で走り去って行き、段差を踏んだはずみに破れたページが空に舞って「ココモレ」と書かれた看板の真ん中にべたりとへばりついた。沿道の大樹の陰には、舌を口からだらりと垂らした斑犬が、風でバタバタと音を立てるその紙を見守りながらぐったりと芝の上に寝転び、道の向こうからやってくる少年たちの足音に耳を澄ませていた。