不成立の気泡(つまめない豆たち?

どうぶつえんvol.8に発表者として参加した、パフォーマンスと銘打ってひとまえで何かするのは2014年に新聞家にでたとき以来で、先日の1_WALLの公開審査もまあパフォーマンスといえばパフォーマンスだけれどあれは飽くまで審査だからな、そんなこころもちで緊張しつつもレクチャーレクチャー?、あまり成功したとはいえない手ごたえでおわったのだった、(とはいえ、参加者の幾人からかはうれしいコメントをもらえてとても励みになりましたありがとうございます)


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隙だらけで雑雑した感じを目指していたとはいえちょっとツメが甘すぎて、対話の重要さを説きながら自分がひとの話をちゃんと聞いていないさま(ハムナプトラの話をしてくださった方、ほんとうに申し訳ないです)を露呈していく、これはまさに1_WALLで《踏み外さない対話のための第一行》なんて作品をだしておきながら家ではコミュニケーションの断絶が起きていてまさに審査日の前日に恋人に別れを告げられていることがまったく反省されていない、、ちなみに今回おこなったパフォーマンスのタイトルは《踏み外さない対話のための第一声》、そう、名前からして延長線上にあるというのに!(この「名前を付けること」、について当日話せなかったこと、美術家が付ける《無題》《untitled》がゆるせないという話、そこで作家が作品に対する責任を放棄するなよと思う、これはまたどこかで問題にしていきたい)

とにかく話したいことが山ほどある、ということに話しながら気づいて、これをぜんぶ言葉にしていたら日が暮れる、ということで切り捨てたことがらの一部をこの場をつかって反省および整理してゆきます。

まず自己紹介をもっとするべきだった、おたがいの名前の開示だけで深まるコミュニケーションの深度なんてほんとたかが知れてる、むしろこの一点で勝負すべきだった? いや、そうすると詩の話が飛ぶ、詩の話にもうすこししぼった方がよかったかもしれない、めのまえにひろがる光景を見て、それぞれのいだいたイメージがぜんぜんちがう、という前提を共有したことと、そのイメージをこれまでの全人生を懸けて言語化、名付けていくこと、つまりは詩を書く際の掘り下げの深さが感動の尺度のひとつになること、わたしだけの、極限の感情がひとつのコードとしてひととひとのあいだで了解されるとき(詩を読んで感動する瞬間)の関係性、そうした詩的対話を現実の世界でもつきつめていくことができれば、世界はもっと平和になるんじゃないのか、とかそういう方向に思考はのびのび、きりがなくなりそうなのでこのへんで、それにしても自発的に話をすることのむつかしさを痛感した、また同じテーマでパフォーマンスしたいな、リベンジしたいなと思っております、たぶん詩集刊行時にでも、プロジェクションと音楽をレイヤードして、編集的かつ対話的かつ詩的なレクチャーパフォーマンスの可能性を探ってゆきたい。

(そしてこの対話への執着はもしかして高校生の頃にどっぷりとハマっていた人狼に多少の遠因を見いだすことが可能なのでは当時のログを読みながらさいきん思いはじめている、相手を説得することに全力を懸けて発語する姿勢はよりよい対話を考えていくとき現実世界にも応用きくじゃんね、またやりたいな、)


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あと当日読みそこねた読もうと思っていたテキストをアルフォンソ・リンギス『何も共有していない者たちの共同体』(洛北出版)からひいておきます。岸田将幸も詩文庫だけじゃなくて『亀裂のオントロギー』(思潮社)からも読もうとしてたんだけれどいかんせん時間がうまく配分できなかった。

"何かが一人の官能の共犯者から別の共犯者へと伝わる。何かが理解されたのである。*共犯者の間で使われるパスワード*(**間は傍点)が認識されたのだ。あなたを同じ仲間の一人の共犯者に仕立てる何かが語られたのだ。ケツァール鳥、野蛮人、原住民、ゲリラ、遊牧民、モンゴル人、アステカ人、スフィンクスの。"

あともうひとつ、おわったあとに話しかけてくださった方との会話でうろおぼえで引用したハネケの言葉も置いておきます。

"他者と同じ考えになるなんて、性器と音楽を通じて以外、決してありえないのです。もちろん、これらの領域でもごまかしはあるでしょう。しかし、その関係の強さは、あらゆる語が誤解の原因になってしまう言語を使ったコミュニケーションで交換されうるすべてを超えています。(ミヒャエル・ハネケ、ミシェル・スィユタ、フィリップ・ルイエ『ミヒャエル・ハネケの映画術』、水声社)"


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あとは自分以外のところで、Aokidさんのパフォーマンスにおいて起こったハンドクラップによるやり取り、タカラさんのときのマイクとヘッドフォンを介した対話、たくみちゃんさんのフラフープによる他者への踏み込み、そういったところでいいなあと心をゆさぶられていたのであった。コミュニケーションのあり方にどうしたって言葉という切り口から思考していきたいおれはこうやって言葉を介さないコミュニケーションに羨望のまなざしをおぼえつつも、そこから感動や気づきを取りだしながら言葉にかえしていきたい、パフォーマンスで話しそこねたことでもうひとつ、このブログを読んでもわかる通りおれは饒舌タイプの詩を書くにんげんで、もう一方で、極限まで贅肉を削ぎ落とした言葉で詩を書くひとたちもいるわけで、このふたつのタイプについてもまたどこかで話す機会が設けられたらいいな、とにかく言葉を尽くして尽くして喋り続けるしかないんだという地平でわたしは生きているよ、イメージに近づくために膨大な言葉を費やしていくのか、ねらいをすまして端的に急所をついていくのか、そのちがいは詩だけではなくて生きていくうえでもおおきな問題だと思う、

どうぶつえんに参加して思ったのはやっぱり場をつくる、おれは場をつくる編集者になりたいって志して20代を突破しようとしてきたんだってこと、その初手として自宅を開放してイベントやっていこうと思います、まずは今夏に、何をするか決まったらここでも告知してゆきます、よろしくお願いします。


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告知といえば、排気口『謎は解くからだを休めることなく』のフライヤーデザインを担当しました。
今週末6/23-24(土日)、高田馬場プロト・シアターにて。
ぜひ足をお運びください。
ご予約はこちらから。
ぼくも最終日最終回にいると思います。
話しかけてくださるとよろこびます。