経過に伴う犬吠えの過大化

wifi環境がなくなってからまいつきおなじようなことをいっている気がするが通信制限がかかってしまうとあらゆるやる気がしなしなと萎えてしまい気温も上昇、水シャワーがきもちのいい季節になってきた、

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おれは夏がきらい、だけれどカネコアヤノが「夏が終わる頃にはぜんぶがよくなる」と歌っているからよくなることを期待して乗りきっていきます、『祝祭』、これまでのアルバム群からぐぐっ、と突き抜けてきた名盤だと思います、「睫毛の詩学」とでも題して詩論でも書くかい? (一回フリーペーパーをだしたきりで頓挫している邦ロックの詩学を問うていくテキスト、どっかでまた復活させたい、菅波栄純、石原正晴、出戸学、酒井泰明、そのあたり、そのあたり、)

さいきんは古いユリイカ(71,72年)の詩にまつわる座談会を読んでいます、吉本隆明稲垣足穂イカモノだよと話していてなんかわらえる、戦後詩のアンソロジーを読みすすめながらいまでも通用する/しない詩のちがいを考える、座談では途中、那珂太郎の「繭」が話題の中心にあがっていてみな喧々囂々(清岡卓行大岡信が賛、鮎川信夫が否よりの中立、吉本が否)いっているのだが正直どこがよいんだ? という感じで、掲出されている語句で考えるならば文学性-ことば/芸術性-造型の両輪においてそこに緊張感を見いだせるのか見いだせないのかみたいなところがキーだと思うんだけれど、そこで吉本がこれまたイカモノとして並置する志郎康の方が断然たたかっているしおもしろいと思うんだよな、まあおれは那珂太郎の詩をこれまでちゃんと読んできていないので詩論含め体系的に読んできている清岡とはどうしたって離れちゃうんだけれども(この「体系的に」ということ、体系(的)などくそくらえと思ってしまうわたしの肋の間隙に、熱した鉄棒を突き刺しておくれよ)

で、この二元論ってのはヤーコブソンにも接続できる話で、さいきんみた実験映画について「物語」との対峙の問題でちろちろ、というよりもおれは物語に逆らってこそだろ! みたいなテキストを書こうと思ったのだった、アンチ物語、物語に服従したらもうおわりだよ、「詩人は批評が書けなければダメだ」(松本圭二)、「無防備な批評的言語が生まれない」(稲川方人)、ほんとだよな、予定調和の、だれかの溜飲下げるための文章なんてゴミでしかない、穴だらけでも腕力と脚力でどろあそび、どろまみれ、カッコいい泥の城つくったろうぜ!

次回からは詩集編纂の進捗を記録して自分に発破をかけてゆきます。