体温がちがう書式への憎悪

このひとに賭/懸けたいと思えるひとと関係していくこと。その継続が自分(のまわり)をつくっていく。それはとてもむつかしい。20代の課題だと思っております。

七里圭サロメの娘 アナザサイド remix』@三鷹SCOOL、「?」という感じ。ダンサーと演劇者を配する意図は? 音楽から映画をつくっているというのに興味をひかれて観にいったのだが、けっきょくはドラマに堕している。幾層ものレイヤー(複数の映像・音声の重ねあわせ)が映像のなかにあり、映像内に配置されたふたつのスクリーンの合間からにんげんがでてくるのはおもしろかった。そこには鈴木了二のいうようなマテリアルサスペンス=反物語的物質性の表出がある(先日k's cinemaで鈴木作品と七里作品の併映があったこと思えばそこに共通の問題意識がある/見いだせると考えても差し支えないだろう、ちなみにわたしは廣瀬純の言及によって「建築映画」をしったたちで、『建築映画』自体は読んでいないのでマテリアルサスペンスの理解が多少ずれているかもしれない、どちらかといえば松本俊夫の影響下において考えている)。ただ全体としてみてみれば、作品内にでてくるような大学生的サブカルを脱していない完成度としか思えず、ダンサーをメインの登場人物に置いているのに緊張感のない弛緩しきった身体、すなわち画の力がないゆえのしょうもない身体がうつしだされていて、???となった。青柳いづみの声の力もこのようなあらわれかたではひびいてこなかった。

おもしろいダンス/身体とは何だろうかと考えながら観ていたのだが、やはりまいかいつきあたるのは、身体と言葉(意識の場所といいかえてもいい?)の関係性におけるテンションのつよさである。そこにわたしはひかれる。その点でいうとオフィスマウンテンの公演はひじょうに興味深い。

オフィスマウンテン『ホールドミーおよしお』@STスポット、のまえに前作の感想メモを。ちなみに、前回の方が断然よかった。

オフィスマウンテン『ドッグマンノーライフ』@STスポット。エクスキューズ*1をエクスキューズとして提示しない、もしくは非エクスキューズをエクスキューズとしてなげかける? 外に露出した支柱を用いて建てられた小屋のような。振り付けが単純におもしろいし、その浮かなさがよかった。もっと笑いがでる回(客)だとグルーヴがでてよかっただろうに。

*1 ここでいうエクスキューズとは、舞台に立ち、演技をすることに対してのエクスキューズである。

『ホールドミーおよしお』、前作に比べ人体のレイアウト、が前にでてきた気がする。だがその印象-イメージの薄さ(役者の自我コントロールと意識の行き先の断裂による?)が気になった。すぐれた役者と、そうでない役者のちがいがそこに集約されており、きちんとテンションをかけられるひとたち(大谷、横田、矢野)は◎、それ以外は×、の極端さが「酷な光景」を立ち上がらせていた。その凸凹さが魅力に映るかどうかは観客次第だが、わたしはまったくよく思えず冷めてしまったし、そのような意図のもとに本作がつくられているわけではないだろう。言葉遊びがふんだんに盛り込まれたテキストは相変わらずくだらなくておもしろいし、振り付けも観ているこちらがどきどきする魅力をもっている(前作の方がよかったけれども)のだから、稽古で何とかするかもしくはキャスティングをきびしくしてほしいと思った。

そして書いていて気づいたのだがこのテンションのかかった身体というのはまさにマテリアルサスペンスを引き起こすものとして見なしうるのではないか?

身体関連でもうひとつ。シアターパントマイムフェス2017Aプログラム@スタジオエヴァ。パントマイムの公演をはじめて観た。そこで考えたのはパントマイムにおける身体は物語を志向するということだ。演劇やコンテンポラリーダンスの身体が、物語との癒着を避けるものとして存在する(しないものも数多く、というより大半かもしれないがそれらには興味がないのでここでは問題にしない)のとはまったく逆の方向へちからがかたむけられ、演者は言葉なき物語を駆動させようとする。そこにエクスキューズはなく、観客は気恥ずかしい思いをしながらも演者と共犯関係をむすびながら「想像上の光景」を幻視することを試みる。その際に問題として挙げられるもののひとつに、パフォーマンスの巧拙があるが、パントマイムにおける巧さの正体とはいったい何なのだろう?

本公演はフレッシャーズ公演と銘打ってあり、若手と思われるパフォーマーがそれぞれ10-15分程度の演目を行うオムニバス形式のイベントだった。最後はゲストと称して、ヴェテランが掉尾を飾っていたのだが、それまでの演者とはあきらかにちがう質感の空間を舞台上につくりあげていた。演技における自我コントロールがよくいきわたっていたし、何より行為=状況のイメージのしやすさがあった。これを喚起力をもった抑制された身体といいかえてもいいが、これはダンスや演劇におけるすぐれた身体とイコールでむすびうるものである。その身体によって喚起されるものが物語だけでなく、そのもととなる「異質な身ぶり」自体も同時に前景してくるのがおもしろい。このあたりで思考のための執筆が、書くための執筆になってきた気がするのでとぎるが、物語を志向しながら、同衾を拒みつづけること。それがパントマイムのひとつの極点として考えられるのではないか。パントマイムの世界にも、ダンス/コンテンポラリーダンスのような区分けはあるのだろうか。ラディカルなパフォーマーがいるのであればまた観てみたいと思った。

その場でくるりとまわる身ぶりによって時間・場所が切り替わることを意味させるパントマイムの文法はおもしろく、はじめて観るひとでも瞬時に理解できるこのうごきは発明だなと思った(マームでもそんなシーンがあったような気がするが記憶が定かでない)。