ガンマの死相

映画美学校 フィクション・コース第23期高等科『うそつきジャンヌ・ダルク』第1部(2021)観る。投影された映像が背景あるいは登場人物となり、撮影者およびスタッフは劇中に映りこんで介入する。さいしょの木の背景にストローブ=ユイレを想起し、スクリーンをもちいたメタ要素に七里圭を思いだした。まじめさのなかになんのエクスキューズもなしにふざけが入ってくるのがたのしい。唐突さがあっても凸凹して見えないのは、「実地」ではなく「見立て」によって環境が設計されているからだ。それはつまり「演劇」の構造でもある。3部まであるのでつづきはまたこんど観る。

ダサセーターがほしい。30代はダサセーター&ダサスウェットのにんげんになろう。

物語への興味が増している。20代は反物語反物語とバカのひとつおぼえのように口ずさんできたので、その反動があらわれているのかもしれない。反物語への関心が薄れたわけではない。

買いだし。野菜と調味料の類を買う。行きに降っていた雨は帰りに止んでいた。

ニコラス・ウィンディング・レフン『プッシャー2』(2004)。1にひきつづいてオープニングがマジでサイコーだ。前作の主人公フランクの相棒トニー(マッツ・ミケルセン!)を主人公に据えた本作は、男の不能性を主題としており、「母」を喪失し、「父」を殺害する彼の希望になるのが「子供」であるというところに深く感銘を抱いた。『アカルイミライ』じゃんってことだ(ほんとに? おれはこういうエンディングにすぐ『アカルイミライ』をむすびつける)。本作が描く内容は同人会議で話しているようなことがらにだいぶ肉薄していたので、同人のふたりにもすすめたいと思った。

トニーに語りかける男の画から映画が幕開けるが、いつその聞き手を画面に登場させるのか、というのが気になるカットのつかいかた(ながさ)だった。彼は「早く男になれ」とトニーに訴えるわけだが、つぎのシーンでトニーはあえなくタコ殴りになることからもわかるように、劇中、徹底してその男根は屹立することなく折られつづける。売春婦の前では陰茎は立たず馬鹿にされ、自信満々で差しだした父へのプレゼントは拒絶され、用心棒として協力したヤクの取引は失敗する。前作にもあった「ママ」への拘泥/反発は本作のなかにもあって、はたして『ドライヴ』(2011)や『オンリー・ゴッド』(2013)ではどうだったかと思いだそうとしたが思いだせない。トニーがAVを見ながらヌンチャクをふりまわすシーンがあって、それを隣に座る友人に嗜められているのがウケた。こういうさりげないユーモアを暴力の合間に合間に入れこむつくりにとても好感をもつ。ハッパをキメながら乳児にミルクを与える母や、結婚式の夜にウェディングドレスを着てコカインを吸引する女、赤ちゃんのおむつを取り替える強面アウトローの男ふたりなど、まず画面内のにんげんのありかたがおもしろい。トニーと、トニーの子の母であるシャーロットの「記憶力に問題があると言われたことがある」「誰に?」「覚えていない」というやりとりも単純だがわらえた。

「母」を殺すことはできなかったが、「父」は殺すことができた。自身は「男」にはなれなかったが、「親」にはなることができる(かもしれない)。この主体のありかたがおもしろいと思った。すでに「父」すらも殺せない2020年代のわたしたちは、はたして「親」になることができるだろうか? あるいはその志向をもつだろうか? 少なくともわたしは子がほしいきもちがある。わたしの肉体が元気なうちに、男性身体が妊娠できる世界がやってこないだろうかと妄想することすらある。これは白痴エロゲーの欲望と同一か? 自分よりも弱い存在に触れることで、自己を肯定するちからを獲得する搾取的な関係性をもとめているのか? いや、そもそも子供をこの世に出生させること自体が、否が応でもその関係性に身を投入することである。反出生主義の議論を追っていないのでこれ以上このルートで思考はのばさないが、行き場を失った男がすがるものが、自分の幼い息子であるというのはとてもわかる気がした。自身の服役中に恋人でも妻でもない相手から生まれた子供、ほんとうに自分の子供かも診断していない子供、目の前にたたずむまだ言葉も話すことのできないか弱き子供……。


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たまには料理の写真ものっける


夜、ニラとレンコン入り肉団子。うまい。きざんだ具材と肉をオイスターソース、鶏ガラ顆粒、塩胡椒酒醤油で練りにねり、片栗粉をまぶして焼く。大葉を入れてもよいだろうし、もちろんにんにくや生姜を入れてもよい。餃子のタネにもなる。ドロヘドロのまかないギョーザバーグ丼を思いだす。

会社員時代、社内外で髭を生やしていることをさんざんネタ(主に「否」の言及の対象)にされたが、そのときに社交辞令としてわたしが発する「お見苦しくてすみません」という言葉、いま思いかえすとイカれている。自身の容姿に関して、なぜ他人に謝らなくてはいけないのか。教育機関における頭髪検査とかぜんぶやめたほうがいい。髭について、出入りしていた「おもてなしの最高峰」みたいな企業のスタッフに陰でボロクソに言われたことがあるが、そんな精神性で為される「おもてなし」、さいあくだと思った(これってあやうい精神論?)。髭が生えていることに対して「お見苦しいですが」と断わりを入れているついーとを見かけ、このような記憶が突如忘却の彼方からよみがえってきたのだった。そんなことをひとにいわせる社会、はやくおわれ。おわらせよ。