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詩は本質的に全体主義を拒絶する

過日、現在の演劇シーンにおいてもっともラディカルな試みを実践している演劇カンパニー・新聞家の、新聞家のケース『鶯張り』第1話「認可保育園」(なんと複雑な呼称!)を下北沢ケージにて観劇し、その行為が生起させる「出来事」の尊さと困難さに合点がいったので、ここ1年半ほどに観てきた作品群に関するメモを貼付/再読解しながら、彼ら、あるいはわたしたちの、孤高なたたかいについてつらつらと書く(はずだったのだが怠惰ゆえに頓挫したので、さらなる思考、次なる思考のためのノートとして書きつけておく)。


■メモ1. (2015.1『スカイプで別館と繋がって』@SNAC)
新聞家『スカイプで別館と繋がって』。事前的な了解を結ぶためのデモンストレーション、くわえて遊びのある意識のゆれが補助輪となって作品のそばを回る。決して結像しない記憶のあやふやさは映る位相での心的な体験として試される。批評性の矛先が制度を支持してしまっているのではという疑問が残る(「物語る/物語/手法」への言及=批評的視座)。
シニフィアンシニフィエ化。
この自己言及は突き放しではない。

Xという制度のなかで、そのメディウムの特性をきちんと身に引き受けたうえで、いかにしてそれを更新していくか。そうした格闘が文学や音楽や、映画などあらゆる場でおこなわれているが、新聞家もその例にもれなく演劇の場においてその実践をおこなっている。ある枠組みのなかでその枠組みを転覆させることの困難さは、真摯な表現者であれば誰しもがぶつかる点であるが、鑑賞時点のわたしの着眼点は

この時点のぼくの理解では、新聞家は演劇という制度の更新を

この『スカイプで~』を観劇して思ったのは、新聞家は難解からの脱却を図ろうとしているのだろうかということだった。いわゆるポストドラマ演劇で、それも独自のルールによってガチガチに固めたパフォームをおこなっている印象をこれまで受けていたのだが、今回はこちらに譲歩するような試みが垣間見えたような気がしたのだ。

■メモ2.(2015.5『川のもつれホー』@CLASKA
新聞家『川のもつれホー』。極限的ミニマリズムにおける身体とテキストの緻密な緊張関係はもはやダンスだ。遠景に浮かぶ亡霊の、親密さを周到に拒んだ静的な点滅。騒々しい近視的ダイナミズムが、遠視的フラットと=で結ばれる、その最大/最少のドラマ。懐かしさを孕みながら鳴る言葉が彼方へ流れ去っていく。
「川」という字に負荷を掛ける(ねじったり、つらぬいたり)ことで「ホー」となる。

彼らは上演中、ほぼ動かない。なのに、それがダンスに見える。新聞家を鑑賞して、2回に1回は思うのが「音楽」が加味されたものも観てみたいということで(近作ではそう思わないことが増えている)、これはテキストと身体の関係性がとてもダンス的なかたちで応答しあっているように思えるからだ。これは言葉によるダンスの振り付けというような意味ではなく、その緊張の張りつめかたが似ているということだ。
後藤ひかりというすばらしい役者がそれをまさに体現していた。

■メモ3.(2016.3『SABR』@UTILITY canvas
新聞家『SABR』。圧倒的なラディカルさにわたしたち観客は疎外されている(ように感じる)のだが、ふしぎと空間には親密な時間が流れている。何重にも引き裂かれている(身体、発語、衣装……)役者の、「噛み合っていないこと」があたかも噛み合っているようにみえるたたずまいはナチュラルな異形として目に映る。いくつもの相違が合致をみるとき、舞台上には珍妙なくちをひらく動作と効果音が連打される。そのユーモラスな様相とはうらはらの調和の尊さにしびれた。その後すぐさま「わからなさ」が「わかる」に変幻していく鮮やかさ。特徴的な手の芝居/動きはブレッソン的でさえある。

■メモ4.(2016.7『帰る』@NICA)
立ち上がりはじめた現象が、端のほうからほつれていく。語りかけない親密さ。そのしぐさ。いっぱいいっぱいな、確かめかた。こんな愛の語りかたがあっただろうか。にんげんが、桜や線香花火など、消えものに詩情を感じるとしたら、これはその「感じ」を舞台にあげているように見えた。タペストリーが編まれ、その先からほつれていく……。
後藤さんの寄り添いと理解不能性にたいして、横田さんの決裂と理解可能性が同時に起きている不思議さ。
90年代前半生まれの、未来の描きかた。過去を通った未来の描きかた、未来にゆけなさ、があるように思えた。

■メモ5.(2016.10 新聞家のケース『鶯張り』第1話「認可保育園」@下北沢ケージ)
出会い直すためのほつれ。懸命なひとは、観客にも懸命を強いる(その綱を引くかどうかはもちろんわたしたちにゆだねられている/その同調圧力とどうむきあう?)。共鳴は懸命なひとたちのあいだでおこる。その陶酔によって、出来事との対峙のしかたをわたしたちは省みる。そこには、全体主義との誠実なたたかいがある。「踏みとどまれるひと」たちが互いにその尊さと困難さを確認する。詩が生起する「場所」を提示できるのは演劇というメディアがもつひとつの特性といえる。=非シニフィアン的記号であること。

本作を観たことで、これまでの作品に対するクエスチョンがすべて消え去って、クリアーになった。懸命に話すひとに対して、耳を傾けること。瞬間的な矛盾性と、編んでいくのにほつれていくタペストリーであること。

■メモ6.(2016.11 『揃う』@Chiyoda art space 3331 )
メカニカルな印象があった(これは演出ではなく役者の範疇だろう)。いままででいちばん言葉が入ってくる。想像の光景が明確に立ちあがっていき、だが、どこかでその図像がほどけてゆく。映画だと思った。写真でもなく、絵画でもなく。言葉のありかたが、細部に向かっている、その些細なフレームワークが。いや、それがもしかすると演劇の深奥なのかもしれない。最後にくりかえされる言葉/ゆえに立ちあがる状況に、新聞家のつむぐドラマが集約されている。観ている観客は、揃うことが試される。帰り道、秋葉原に立つメイドの姿を見ながら、「真摯である」身体のことを思った。

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