波止場石郷愁「かおるクロコダイル」を読む。さいしょに突きあたったポイントがここ。
「そういえばさあ、黒木くん部活入ったらしいよ」
令子が何気なくいったその言葉にわたしは驚く。
「薫くんが部活?」「うん。部活っていうか同好会だけどね。小島奈美って別のクラスの子がひとりでやってる」
へええ、ほおお。あの薫くんが写真!
「それはいいことだね」
それは本当にいいことで、わたしは安心する。写真ってわたしスマホのカメラしか知らないけど、ちゃんとしたカメラを使ったりするのだろうか。薫くんが写真に興味あったなんて知らなかった(…)
(波止場石郷愁「かおるクロコダイル」)
「写真」の一語を会話のなかには置かずに地の文に配するという、会話を先取りするようなかたちで理解を示すその文の配列にしびれたのだった。さりげない違和をもって読者の目を蹴つまづかせる、すぐれた時制の操作だと思った。こうした文の表面にある突起やくぼみをなでまわすことがわたしは大好きである。
作中で取り扱われる「演劇」というモチーフは、わたしも周囲にその営みにたずさわるひとが多いこともあっていま書いている作品に登場させているので、つよい共感をおぼえた。読む/書くということとの相性のよさもある。
主人公のかおるくんが、自身の取り柄であると同時に足枷でもある「ツノ」を利用してくれる異性にいいようにつかわれるという構図にも惹かれた。ズラウスキーであればそのままふたりは破滅することになるが、本作では自身の内部において「僕」を萎縮させる自己の呪縛を解くことに成功し、「書くこと」をその救いの一手として選びとっている。撮られるという受動的なありかたから、書くという能動的なありかたへ。ビルドゥングスロマンの一形態として読んだ。
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正月のだるだるした気分が抜けてきて、たぶんこれは他者性が関係しているなと思った。たとえば、どうぶつえん。たとえば、おたより。たとえば、友人からの通話。そうした自発ではないものごとが、わたしのやる気にはたらきかけてきて、自前のエンジンが蒸される感じがある。ありがたいことだ。
今年はじめておこなう必要のある確定申告のことを考えるとめんどうくさすぎてためいきがでるが、支払った金がもどってくるというのなら、そして今後ずっとやっていかなくちゃならないというのなら、いやいやながらも本腰を入れて取り組むしかないのだった。
しばらく鳴りを潜めていた口内炎がふたつ、下唇のうちがわあたりに顔をだしており、ものを口に入れるたびに痛みに歯を食いしばっている。