Fのスタッフクレジットをながめていたら、おそらくわたしのイデオロギー的な問題が原因でSNSのピョローを外されてしまったひとの名前があるのを発見し、マジか?となった。参加していることに対して言及しているのを目にしたことはないが、まあふだん「アート」の文脈で活動しているのだから「アニメ」の活動なんて告知しないのだろうなと納得してしまった。
いや、子供の夢をこわさないためだ!とポジティブな思考もうごく。
アンビカショップで買ったチャイを淹れる。まあこんなもんだろと分量を適当にやったところ、スパイスが相当バチバチでのどが痛熱くなるほどだった。配合はちゃんと考えなきゃだが、もっと寒くなったらめちゃよさそう。
上演は観客がいてはじめて成立するみたいな言説、以前は「わかる」という意識があったが「嘘じゃないか?」と思ってきた。だれも聴衆がいないラジオや、だれも読者がいない文章なんてのをずっと発信しつづけてきて、そこにわたしは「成立」を見ているので、それを舞台に移し替えてもいっしょやんけ、と思った。だれもいない森の奥で舞台を上演することが「上演として成立していない」なんてわたしは思わない。(わたし以外の)だれかがいる、という意識自体は大事かもしれないが。こんなことを書いていたら以前どうぶつえんでごいっしょしたTさんが同様のついをしているのを見、うれしくなった。ちなみに、先に触れた「アート」の活動をしているひともどうぶつえんで会ったひとだ。
オトプリ(なんて略すんだ? キボチカはなんか変だし、、)2話。キュアドリーム再臨回。明確に「敵」がでてくるんだからそりゃ変身するだろうとは思っていたものの、中学生のすがたにもどっての変身というギミックは「時間」をテーマのひとつとしている本作にあってはうってつけの回路だと膝を打った(バンクも当時のものを流用、「時間は戻らない……」とつぶやきつづける敵的存在・ベルと対比となる現象……)。バトルの作画もニチアサとはひと味ちがう、怖ささえ漂う迫力。トロプリ最終決戦のフラミンゴなんかを思いだす芳山節がでていた。
それにしてもプリキュアが酒を飲んでいる!という絵面はかなり衝撃的。スタプリのリーディングドラマですでにじつげんしている展開ではあるが、こうして「アニメ」として映しだされると想像以上にショッキングである。くるみが派遣社員であるというのも効いていて、上司の昭和的社員精神によってサビ残を強いられるストーリーも自分もそのような環境にいたことがあるぶん、クるものがあった。プリキュアとしてたたかっていたにんげんたちが、社会の歯車になっているという構図、ここで思いだされるのは廣瀬純の以下の文言である。
働かないことは生に創造性を取り戻すためのひとつの契機となり得るのではないか。これは解雇され失職した労働者がふとした瞬間に心の奥底で立てるかもしれないこの上なく密やかな問いである。はたらかなければカネがない、カネがなければ生きられない、だからオレは一緒に解雇された仲間とともに労組を結成し、平気でオレたちのクビを切るような連中を糾弾し、雇用の継続と生活の保障のために闘う。オレは怒りに身を震わせている。仲間たちもみな怒りと不安で眠れない夜を過ごしている。しかしそんな憤怒の極限において、その憤怒の対極にあるとも思えるようなひとつの絶対的希望が突如として湧き上がるのだ。働かないことからしか「自分の人生を生きる」ことは始まらないのではないか。(『蜂起とともに愛がはじまる』所収「『蟹工船』よりも『バートルビー』を」より)
ところで、前話でもそのようなストーリーラインがとられていて、今話でたがいのスマホを突き合わせる場面を描いていたが、プリキュア同士が連絡先を交換していなかったのはなんでなのだ! あんなに仲がよかったのに! かなしすぎるだろ! たしかに仲のよかった友人たちと卒業を機にはなればなれになってしまうというのはよくある話だが、彼女たちはプリキュアじゃないか……!というたのしげな絵面に反して哀切があった。
ただ、やっぱり絵コンテがおもしろく感じられない。
夜、明太バター豚うどん。うまい。麺は水沢うどん。付属のつゆを豚の茹で汁に塩と味の素を足したものでのばしたのだが、味の素を足す前とあとの味のちがいに、化調最強!の思いをつよくした。
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一生ギャラが支払われない案件、ようやく支払いますよんの連絡があってから1ヶ月経ってもけっきょくひとつも進展がなく、こちらからした問い合わせにもまともな返答がなく、心がおわりそう。こうやって人心は荒んでいく。
QさんやSさんと乗代でなにがいちばん好き?みたいな会話をしたのを思いだして『十七八より』をパラパラめくって、「ここにすべてがある」と自分で思えるような作品が完成しないかぎり、わたしには小説はむりだという考えが去来した。
もうひとつ思いだし。Qさんととんかつを食べた駅までの道のり、味のつわもの、とコピーのある蕎麦屋の看板を見て、つぎの上京時にはぜったいに行くしかないと思った。