川の中流れいこ

 無痛分娩だった、って貴水がいってたって、有川がさ、脚の運びを推したり妨げたりする水の流れに気を張っているところに、皆川が声を発しながらわたしの背に掴まろうとする。布越しに彼女の手が肩に触れ、わたしは重心を更に深く落としてその場に留まろうと努力をする。声を返す間もなく、皆川はわたしの右腕に自分の身を絡ませて、あは、思ってたより速いなあと空いた方の手の指の背をつかって、水面をにどさんどたたく。跳ねた水滴がまたもとの流れにもどって流れ、そのうごきをみとめたあと、皆川はわたしの顔に向きあうようなかたちになる。ちょうどそのとき、足の下にあるサンダル越しの複数の石の丸みに意識をとられながら、わたしは貴水の顔を思いだそうとしていた。高校を卒業してから、もうずっと会っていないはずだ。古典のとき、足代に羊羹のような扇子で指されると、やけに低い声音をして、わかりませんと答えていた光景は浮かんでくるのだが、その声を発していた口のかたちや、その上に並んだ目のおおきさや、鼻の高さなどは何ひとつ思いだせない。目に見える起伏よりも、目に見えない声の波のほうが記憶にこびりついているのがふしぎだとわたしは思った。
 巻はさ、と皆川がいいかけて、それにわたしが耳を傾ける前に、トングどこー、という岸辺から放たれた声がそれをスッと遮った。緑のバッグにないー?と皆川が声を張り上げて、その声を受けた松沢がくるりと向きを変えてテントの方へと帰っていくのをしばらく見ている。やがて右手を高く挙げて、感謝の念をこちらにしらせるまで、わたしたちはちいさくなった松沢のゴソゴソするさまをだまってながめている。その間、耳をみたすせせらぎのなかに、松沢の周辺で交わされる会話が輪郭を失った状態で含まれていることが、その音が耳に入ってしばらくしてから理解された。甲高く鳥が鳴いている。
 さっき、と口をひらきながらわたしが皆川のほうにからだを向けたとき、そこに彼女のすがたはなく、なにを、というところで発声が止まって、横にひねった足もどっちつかずの姿勢のまま停止する。ふくらはぎを押し流そうとする水の勢いがやけにつよく感じられ、顔の上にへばりついたような顔のこわばりが、急に自覚される。視界のどこを見渡しても、その視界をどこにうごかしても、彼女のすがたが見当たらない。水の上を飛びまわるとんぼが何匹か見える以外には、川の上には何もない。陸の上では吉川や清水や田河らが網を囲んでいるのが見えるが、皆川のすがたはもちろんそこにはない。
 まーき! れいこー! お肉焼けたよー!
 ハッセが水のなかに足を突っこんでまでしてわたしたちの名を呼ぶ。その声に我をとりもどし、ハッセ、皆川が、とわたしは必死で陸を目指して歩きだす。真横から押し寄せる水のかたまりが、ひどくじゃまで、歩きにくい。ハッセは目がわるくて皆川がいないことにまだ気づいていないのだ。事態の深刻さに気づいてもらおうと、わたしは歩みをむりやりにすすめながら肩から上をおおきく左右にふりうごかす。まるで、その身ぶりがパスくれよの合図として作用したかのように、ひとつのビーチボールがパシャと音を立ててわたしと岸辺のあいだに着水する。その、西瓜を模した黒と緑のしましまの球体は、水に浮かぶやいなやみるみるうちに川下へと流されていって、すぐにだれの手もとどかない場所へと到達してしまう。あー、とか、ぎゃー、とか、嘆きの声がその流れに被さって、でも、その流れに逆らうように、負けないように、皆川が!とわたしは叫ぶ。みんなの意識が一瞬、わたしのほうへ向く。
 そのとき、流れていったはずのボールが宙に浮いて、みんなのもとへと弧を描いて飛んでいった。砂利の上でみじかくバウンドして、いくつかの石の位置をうごかしながらすこしころがるのを、わたしたちは目撃した。その同じ視線の数々が、ボールが流されていったはずの下流へとのび、そこにあるものを見つめる。川面からまっすぐにのびる、まっしろい二本の腕。花のような二本の腕がまっすぐに立っていて、やがてそれがまっすぐに沈んでいくのを見た。陸の上に立つ、彼女たちも見た。肉の焼ける匂いが、それぞれの鼻腔をみたしていた。