断層

 寝返りを打つと突然めまいに襲われるようになり、あまりにもそれが頻発するので近所のちいさな病院に行くと〈おわり〉とのことだった。
「〈おわり〉ですか?」
「ええ、〈おわり〉です」
 医者は眉ひとつうごかさずに診断を下し、退室を促すように「お大事に」と口をうごかしてパソコンのモニターに向き合った。
「あの、〈おわり〉というのは……」
「〈おわり〉は〈おわり〉ですよ。受付でお薬をお渡ししますから忘れずに受け取ってくださいね」
 医者は黒い画面を見つめたまま、抑揚のない声で言った。キーボードの上に構えられた指先はじっとその場にたたずみ、わたしが診察室にいるあいだに打鍵音が鳴ることはなかった。退室しようと立ち上がったはずみに左足が引っかかって椅子がたおれた。「そのままでいいですよ、こちらで直しておきますので」と医者は顔の向きをうごかさずに言った。
 明るさの均一に整えられた待合室に戻ると、先ほどまでいた何人かの来院者は誰ひとりいなくなっており、加湿器の立てるちいさな駆動音が目立つほどの静けさが亡霊のように横たわっていた。空になった橙色のベンチシートの向こう、曇硝子の詰まった窓のたもとには、幼い子供の背丈ほどある観葉植物が植わった鉢がめきめきと存在感を放っている。葉の大きな、深い緑の茂りの合間に、赤土のような木肌がちらとのぞき、それを呆けた顔で見つめる背筋の曲がった壮年の男がわたしであった。
 そのまま突っ立っていると、受付の女がわたしの名前をまずは苗字だけで呼び、即座にフルネームで呼びなおした。そうかと思った。めまいが起こるとき、この亀裂がわたしのなかに走るのだと直観した。姓も名も、わたしをあらわす記号であることにはちがいなく、だが、そこには明確なずれがあり、がゆえに、受付の女はにど、わたしの名前を呼んだのである。そしてこのふたつのあいだにある断層が、わたしの三半規管を著しく狂わせ、前後不覚に陥らせるのである。硬直したままの背中にさんどめの呼びかけが届いて、わたしは振りかえる。桃色のマスクをした女の顔が目に入り、その瞳に焦点がむすばれようとした矢先、わたしの視界は螺旋めいた混濁をきたし、脳が乱暴にゆさぶられるような不快が顔面に垂れ落ちて、破砕した。
 つぎにまぶたがひらかれたとき、わたしはふたたびおぞましいめまいによって身体中の感覚が囚われ、ここがどこか、自分が誰なのかもわからなくなっていた。襲い来る吐き気とめくるめく廻転になんどもうごきを制されながら、やっとのことであたりを見回すと、〈つづき〉と書かれた緑のボードがドアノブにぶら下がっているのが目に入った。わたしは四つん這いになり、その一角を目指した。遥か頭上では、誰かの声が、またほかの誰かを呼んでいる気がした。