りいこ、つめたい光りのあつまりのこと

 水田に張っていた氷が融けて、雪は畦に読点のようにのこるばかりになっていた。枯れた風景があらわになり、つい二、三週前に水面をにぎわせていた渡り鳥たちのすがたもなく、うらさびしい風が吹くだけの土地を見て、わたしはそのときおさめた映像のことを思いだしていた。よく冷えた真昼に、田のなかほどで鴨や白鳥がついついと泳ぐさまを道の端から眺めやり、こんなちいさな水辺にも彼らは海峡を越えて遥々飛来するのだとその長い旅路に思いを馳せながら撮影したわずか十数秒のビデオに映しとられた光景が、そのときとは別様のさまを見せ、いま目の前にある。それを撮ろうという決意を促したのは、いったい何の作用だろうか。そんなことを考えながら、意を決してその田のなかへ一歩踏みだすと、冴えた水が靴の繊維の隙間から入りこみ、濡れた靴下がびっちょりとわたしの肌に張りついた。歩をすすめるにつれて皮膚の感覚は麻痺していき、しびれるような熱が足全体をかじかませる。水は痛ましいほどつめたいのに、それに浸かった足を熱のように感じてしまうのはふしぎだ。はげしい熱源を水面に差し入れ、等間隔の穴ぼこを泥の表面にのこしながら、わたしはとうとう田の真ん中までやってくる。一本の木が、立っている。

「あんれ、辻井さんとこの」
 車窓から見えたひとがたの、表面を覆う真っ赤なコートを見て、麦子は声を上げた。運転席の立海はハンドルを切りながら、目を妻の声が指し示した方向へと向ける。
「あんなどごで何しでんだ?」
「ちょっと、車止めて」
 麦子は、車輪がまだ止まりきらない段階で窓を開け、「りいこちゃあああん」と叫び、声だけではなくからだもだ!とドアを開けて「んなどごで何やってんだあ」と声を張り上げながら身をアスファルトに下ろす。立海もエンジンを止め、車の前を大股でまわって麦子の傍らまでやってくる。声に逆らって風がつめたく吹きつけ、りいこのところまでとどいているのかわからない。
「ほら、あんた」
「こんな格好で、ゴム長でねえがら」
「だったらはやぐ着替えてとってこ!」
 尻を叩かれた立海は運転席にもどり、長靴を取りにすぐそばの自宅までアクセルをふかす。麦子は畔の縁まで歩みいで、りいこの名前を呼びつづける。その声の向こう、赤衣の女は澄んだ水田にそのすがたを映し、心木の前に身を立たせている。

 思っていたよりも、あたたかい。指の先から伝う温度に、わたしは感動する。錯覚かもしれないが、生きている、と思う。燃やされるために根こぎにされ、もといた場所を離れたこの木が、また新しく土に根を張って、生命として息づいているように感じられる。今年は燃やされることなく、ただ住む土地を移設されただけでその生涯を終えてしまうだろうこの木を、わたしだけでも愛してやらなければいけない。愛でてやらなければいけない。わたしは胸にかけたカメラを構え、写真をおさめようとする。映像をおさめようとする。自らの手のなかに所有しようとするこの欲望を駆動させているのは、紛れもなく愛の作用だ。撮影機を構え、そのちいさなディスプレイに映る木肌のテクスチャを見たとき、ああ、この木がわたしをここまで招き寄せて、自らのすがたを記録させようとしているのだと気づく。懐かしむようなわたしのやさしい手のうごきが、フレーム内に侵入する。

 乾いた泥が所々にこびりついたゴム長を片手に、立海は自室の窓辺に立って眼下の田面を見下ろしていた。麦子の心配するあの若い女は、隣の辻井さん家の娘で、昨年末にキャリーケースひとつ携えて海の向こうから帰ってきたのだと、前回の地区集会で耳にしていた。彼女はゲージュツをやっていたのだと脇田のじさまは唾を飛ばしてわめいていたが、あんな格好で泥田に入る物好きなところを見ると、あながちそれはまちがいではないのだろう。立海の芸術に対するイメージは、変わり者とか、狂人とか、異常者とか、そういった言葉であらわすことのできる範囲のものでしかなく、いまから四半世紀以上前に当時のガールフレンドに連れられて足を運んだわけのわからない「コンテポラリーアート」とかいう代物の印象によって埋め尽くされており、「ゲージュツ」という音のひびきを耳にすると、どうもそこに展示されていた奇怪な作品群があたまに浮かび上がってきて、そのとき感じた胡散くささをずっと拭えないでいるのだった。いま目の前でくりひろげられている光景は、ちょうどその展示会場にあった泥まみれになった女が念仏のようなものを唱えている映像を思いださせるような質感があったが、立海はその記憶にたどりつくことはなく、「かつて何か似たようなものを見た気がする」ことと、じさまの発した「ゲージュツ」の語がないまぜになった状態が、いつぞやのいぶかしさを生成し、女を見つめる視線のなかに織りこまれてゆくのだった。
 あれがゲージュツならば、わざわざ近づいていって彼女の邪魔をするのはよくないのではないか。そんなことを考えながら、立海はそのまましばらく木と戯れる女をながめていた。今年は歳の神はおこなわないともじさまはいっていた。あの木もいずれ運ばれて処分されるだろう。ぼんやりとした視界のなかには、麦子が場違いな格好で田の縁でなす術なくうろたえているすがたもあった。その間抜けさがどこか心をくすぐり、立海はこの光景を写真に撮ろうとゴム長を床に放って両手を自由にする。足もとから発された弾力のあるへなちょこな衝撃音が耳に入ってはじめて、立海は自分のたしかな意志の存在に感づいたのだった。

 麦子はためらっていた。勇気をもって前方へと踏みだしてゆけば、左腕にはめられた時計の秒針が一周もしないうちに彼女の肩を叩くことができるだろう。だが、いまは法要の帰りであり、その身は折り目正しい礼服につつまれていた。いくら声を上げても肝心の相手はこちらを振り返ることもせず、目の届く距離だというのにはたらきかけることのできない埒の明かなさに麦子はいらだっていたが、かといってそれを強行で突破する度胸もなかった。心中ではりいこを心配するきもちが破裂しそうなまでに膨れ上がっていたが、自らの靴や服や身体を泥水で汚すのが惜しいという感情がその心情に勝っているのも事実だった。その板挟みに自身では気づくことなく、早く立海よ戻ってこいと思いながら、麦子は女の名前を呼びつづける。まるでもう死んでしまったひとのように、彼女は返事も反応もしない。

 *

 泥にまみれた写真が裏返しのまま野ざらしになっている。かすかに残る白の部分が、薄暗闇のなかでそれを伝える。遠くの方では炎が上がっているのも見える。ここからはちいさく見えるが、かなりの面積が焼けているのだろう。鳥が鳴いている。地からしずかに立ち昇る橙の光が、きらきらと煌めいて、まるでお祭りのようだとあなたは思う。