文殊的にクロール(ねはんねはん)

けっきょくそんなもんなんだよなあというあきらめへの対処法について。突破感をしばらく獲得していない気がする。そんなことをぶつくさいいながらも、やっていくためにはやっていかないといけない。不条理なトートロジーだ。SNSの「いいね」に質はやどらない。評価の数量化への抵抗、つまりは言語化ということだ。言語の価値を共有する関係性をつくるために。

めざめて即オンラインミーティング。テクノロジーによる精神と身体の動員を思う。複数名の話をまとめていくのはたいへんだろうなと会話をききながらたにんごとのように考えていた。おわったあとはチャルメラに大根の皮と卵とぎょにそを入れて食べる。たのんだ本がとどいていた。たかだかインスタント麺ひと袋で腹が重く、しばらく横になる。なんどかトイレに足を運び、なんどめかの横たわりの最中に本のおまけの「せなかスター、死後のコレオ」からめくりはじめる。日記だ!とうれしくなる。日記はサイコーである。富士日記もいま手のとどく距離に置いてある。誤字への恐怖。

突然ですが占ってもいいですかという番組の選曲がよいなと親が流しているのを耳だけでみていて思う。そもそもテーマ曲が相対性理論だ。高木正勝平賀さち枝やリーガルリリーが流れていた。会ったことはないがゼミの後輩なんだよな。いま思うと、わたしの入っていた3つのゼミそれぞれにミュージシャンがいた。SSW、ラッパー、ロックバンド。しかもどれもそれなりに名前が売れているのがすごい。おれも売れよう。わたしも売れよう。けっして売れることが目的ではないが、、


f:id:seimeikatsudou:20201125045807p:plain
229


めかじきのバターソテー。にんじんキャベツのタマリンドかつぶしマヨネーズ和え。わたしは濃い味サラダで生きていくね。生トマト食いてーー。食事の支度をしているあいだに親が観はじめていたジョー・ケリー×ケン・ニイムラ『I KILL GIANTS』の映画版である、アンダース・ソルター『バーバラと心の巨人』の後半部だけを観る。原作の記憶がちょっと曖昧かつ、映画をぜんぶを観ていないのでなんともいえないのだが、いい具合に映像化されていたんじゃなかろうか。困難に想像力で立ち向かう構図がわたしは好きなのだ。

『きっと、いい日が待っている』、北欧/施設ものという点で『孤島の王』と比較してしまうのだが、深刻さが向こうに比べ弱いためにせっかくのていねいな演出の積み重ねがあっても作品のパワーとして負けてしまっている。だが、文学的想像力が困難における救済となる尊さをおれはぜったいてきに支持する

このついを思いだした。

だが、「心の巨人」なんて堂々といってしまう邦題はいかがなものかと、公開当時も思ったことをあらためて思った。原題がそんな感じというのもあるが、「きっと、いい日が待っている」も想像力を限定してしまうもったいないタイトルではないか?