宙力ナンバーワン!

人生が激甚災害みたいなものなのでちょっとやそっとのゆれでは問題がない、とついしようと思ったがやめておいた。

たとえばわたしがいま死んでも、このブログは何日かあとまで更新されるわけで、それはおもしろい、と思った。死者の更新するブログ、感動的じゃないか。じっさいに死ぬときまで、その光景を想像しつづける。

出来事の音速の物語化によって失われるものは、もともとその程度の出来事だったのにすぎないのであって、むしろそこからこぼれ落ちるものこそが、出来事の核心なのではないか。というようなことを、ある種のついをながめて思った。クリシェ的な思考だが。いよいよ多和田葉子の『献灯使』を読むときがきたな、と本棚から手にとった。天にかぶったほこりをティッシュでぬぐう。石井光太の『遺体』も段ボールからひっぱりだして読むべきだろうの声。和合亮一の詩文庫も。福島という磁場、2021年の2月という時宜、震度6強地震という事件が、わたしを行為に駆り立てる。

half waifというミュージシャンの曲がapple musicからかかり、宇多田ヒカルっぽい歌唱だと思った。宇多田のほうをそんなにしらないが、声の消え入りの感じが似ている。そんなことを思いながら、校正のためにプリントアウトした紙に入れた赤を、テキストデータに反映させてゆく。「1970年 邦楽 ベスト」というプレイリストをかけながら作業していたのだが、音づくりのスカスカ感がめちゃくちゃ気になった。音圧がない。低音が死んでいる。ヴォーカルばかりが前にでている。


f:id:seimeikatsudou:20210214112532p:plain
297


夜遅くになっても「生きてるの?!!」というようなメッセージがいくつかとどいており、よりありがたいきもちになる。みなやさしい。「みなやさしい」と思うとき、わたしのあたまに浮かんでくるのは花沢健吾アイアムアヒーロー』第1巻で主人公の英雄が公園で恋人てっこのつくった弁当を食べながら「やさしくないのは俺だけだ……」と涙を流すシーンで、今後の人生においてもなんども思いかえすことになるのだろう。漫画自体はけっきょく最後まで読んでいない。そんな漫画ばかりが段ボールにつまっている。そんなことはないか。

黛ジュンの「自由の女神」がいいなあと思っていたらしっているメロディが流れはじめ、「走れマキバオー」だ!と思うとじつはその元ネタである「走れコウタロー」で、マキバオーってパロディソングだったんだ!とはじめて気づくのだった。麻雀の役名を連呼する競馬実況風の語りがウケる。

4時を迎える前くらいに父親がリビングを去り、ふとながめたテーブルに上の惨状にあたまをかかえるのだった。なんで片づけをせずに寝られるのか。わたしにもよく食いこむこの刃はよく切れるが、ざんねんながら家父長制の破壊に役に立つ気配はしない。