ポーズをとる。それは嘘である。わたしの倫理は自らに対する嘘を拒む。自分に嘘をつかないためであるならば、他者に対する嘘をも辞さない。「嘘はつきたくないなあ それすら嘘になった」? 「好き嫌いでしごとをしていない」あるいは「好き嫌いで映画(本でも服でも骨董でも漫画でも音楽でも演劇でもなんでもいいが)を観ない」という年配の話者が発する語を受けて、いや、「わたしは好き嫌いで生きていきたい」と思う(なお、同じ口で○○のグループとはしごとをやらない、とのたまう、、そう、にんげんとは矛盾的な存在で一貫した整合性などとりようがない)。自らの心に嘘をついてまで何かをやりたくないし、嫌いなものにわざわざ時間やお金をかける余裕もない。このことはもうすこし精度の高い言葉できちんと言語化したい。そもそもなぜ「好き嫌いでしごとをする」「好き嫌いで何かを読んだり観たり」することがさもわるいことのように論われねばならないのか。0/100でものごとを考える態度が好き嫌いで判断することと関連づいているような気もする。1-99のグラデーションを否定するわけではないのだが、いちどエッジに逸れてしまえばそこからもどることはむつかしい……。
しばらく大丈夫になっていたのだが、週末家にひきこもった所為でまただめになっている。何が大丈夫からだめに遷移したのか。これまでは「精神」と呼んでいたが、それがあらわす範疇よりもよりおおきな、それでいて個別的なものだと思いはじめる。ひさしぶりに昼夜逆転してはやめに家をでたために電車がめちゃくちゃ空いている。空いた電車で会社に行きたい。そもそも会社に行きたくない。時差出勤がはじまった。さらにめちゃくちゃ空いている。未来への漠然とした不安と疎ましい自己嫌悪に苛まれている。このだめさはしばらくしたら回復した。またすぐに再発するであろうが。
三島由紀子『Red』、おれはいったいなにをみせられているのか、夏帆のかわいさはまちがいないが、、台詞のクドさ、みるものの心情に寄り添わないいいシーンの連続だけではどうにもならない、原作に足を引っ張られているのではと読んだこともないのに思わされてしまう出来、劇場をでたあと、号泣したと話しあう女たちの言葉にエモーショナルな音楽がかかっていることの効力を思う、青山真治のコメントを見て観にいったのだが魅力がよくわからなかった。
ラジ・リ『レ・ミゼラブル』、小刻みズームのカメラワークが苦手、クリスがロシアだがどこかのgifでたたかう男に似ている、家族映画でもある、誰が親であり兄弟なのか、自らによって家族をつくりだすことと生まれ落ちた家族に身を甘んじること、
ファティ・アキン『屋根裏の殺人鬼 フリッツ・ホンカ』、シリアルキラーのみすぼらしさを強調するようなシーンの執拗な長さ、部屋のディティールのすばらしさ、場末の酒場のどんづまり感、と見るべきところは散見されるのだがおもしろさを感じることができず、、3月のシネマ、いまのところあたりに出会うことができずにいる。
事前にとどまりつづけること。そうした立ち位置に耐えつづけられるようなことができるほどひとはつよくない。