所持することによって傷物になっていくことに抵抗はないのに、得るまえは無傷な状態であってほしいと願うのはなぜか。本を買うときの話である。よれたカバー、やぶれた帯、すれた小口……。古本への抵抗もないというのに。贅沢な話だ。
指をずっぱり切ってしまった。切れ味がわるくなったなと思っていたのだが、指の先からとめどなくあふれる血に、まだまだいけるなと考えなおした。包丁の話である。ぶくぶくの泡が赤く染まる、流水によって流れていく、よくきく軟膏が棚のなかにみあたらない……。痛い痛いとひとりで騒いでいたが2日もすれば傷口が閉じた。2019年をともに越える、最後の相棒だ。
今年はなめらかにしごとがおさまり、すでに年末の休暇に入っている。今年は実家に帰らない。しごとをおえた当日に忘年会をはしごした以外は、家にひきこもってただひたすら本と酒と音楽をあおっている。昨年末にもたくさん本を買ったのを踏襲し、今年も気になる本をすぱぱと買いこんだ。そのなかでまっさきに手をつけたカロリン・エムケ『なぜならそれは言葉にできるから』がとてもよい。さまざまな種類の暴力を受けたひとびとの、その傷口における語りの(不)可能性が、多様な文献とじっさいの取材をもとにして、ていねいに綴られている。読みおえたら何か書くかもしれない。読書ノートをとらなくなってしまってしばらく経つので、この場所を使って思考を鍛えなおしたほうがいいのではと考えている。
忘年会でもそうであったが、しごとをやめる、という話を会うひと会うひとにしている。言葉にすることで、意志をかため、まえへすすむ。まだひとつだけだが、転職サイトへの登録もした。転職先のサーチ自体は冬に入るまえぐらいからおこなっていて、なかなかよさそうなところが見つからず難儀していたのだけれど、わたしをおもしろがってくれそうなところがひとつあり、その会社に応募するために登録したのだった。会社とわたしの関係においては、わたしがおもしろそう、と思うよりも、わたしをおもしろそう、と思ってくれることがたいせつで、その方がきっと幸福な関係性をむすべるのではないか、とたいした転職活動もしていないうちに思いこんでいる。ゆえに、自ら応募していくよりはスカウトされるスタイルの方が合っているのではないかと考えているのだが、はじめての転職なのでよたよたしている。あなたの転職体験を教えてください。
映画のふりかえりはついったでやるとして、年始にたくさん読むぞと意気込んでいた本については例年に比べれば読んだもののそこまで多くは読めなかったので来年の課題にするとして、演劇や美術はまあ保留にするとして、音楽についてはここで成仏させておく。しっかり書き残しておくことで、さらなる未来にも出来事をきちんとふりかえることができる。わたしはどうでもいいことばかりいつまでもおぼえていて、だいじなことをすぐに忘れてしまうので。
今年聴いてよかったアルバム10選。
Faye Webster『Atlanta Millionaire Club』
Stella Donnelly『Beware of the Dogs』
Jay Som『Anak Ko』
Sinkane『Dépaysé』
Gum Takes Tooth『Arrow』
Teeth of the Sea『Wraith』
Manequin Pussy『Patience』
❨Sandy❩ Alex G『House of Sugar』
Ogre You Asshole『新しい人』
カネコアヤノ『燦々』
次点でBlack Marble『Bigger Than Life』。Men I Trust『Oncle Jazz』、Girl Band『The Talkies』は期待していたわりには肩透かしの感も、、? ちゃんと聴き込めていないだけかもしれません。TurnoverやMichael Nau、Pink Shabab、Toyあたりのアルバムもよかった。が、いかんせんこちらはもっと聴き込みが足りず。上記リストのアルバムと同じぐらいに聴いていたら、おそらく何枚かは入れ替わっていてもおかしくないくらいにはどれもよいです。MorMor、Jazmine Bean、Girl In Red、JW Francisはリリースはあれどフルアルバムがでなかったので入れず。サブスクを導入したおかげでまあまあ数を聴いた気もするけれど、同時代のカルチャーと添い遂げたい自分にしてみれば古いものに手をのばしがちな年だった気もする。
10年代の終盤にかけて、あたらしい邦楽をとんと聴かなくなってしまった。わたしは大学に入るまではバリバリのロキノン厨で、人格形成にも00年代邦ロックに多大なる影響を受けていると自覚しているくらいには邦楽を愛していたし、大学入学以後もしばらくは新人やシーンを追っていたのだけれど、いまとなってはこれまでに聴いてきたミュージシャンの新譜や旧譜を聴いたりするだけで、いわゆるニューカマーの音楽に胸をゆさぶられることが少なくなってしまった。これは老化の一言で片づけられる事象だと自分では思っている。
幸い、洋楽はしらないミュージシャンをガンガン掘っていこうというきもちがいまだにこんこと湧きでているのだが、邦楽はかつての熱意はどこへやら自分から探そうというきもちにまったくならないのだ。そもそもこの邦楽/洋楽の分割線は何か、言葉の意味か、サウンドのガラパゴス風味か(いまの時代はずいぶんと融和を感じるけれど)。YouTubeでおすすめにでてくるミュージシャンを聴いて、多少はいいなと思うことはあっても、ライブラリに入れよう、ライヴに行こう、あるいはフィジカルを買おうとまではならない。昨年はモーメントジュンが唯一の例外であったが、今年はもしかすると皆無かもしれない。と思ってAppleMusicのライブラリを見かえしてみたら田島ハルコがいた。清水さんの激推しツイートをきっかけに耳にしたのだが、まさにカワイイレジストなアティチュードがカッコいい。こう並べてみると政治性の表出が鍵なのか? 洋楽に関してもその気はあるように思える。
10年代の映画100本という企画を見かけて、自分もやりたいなと思った。わたしが劇場に通うようになったのは2011年からで、多少出遅れてはいるものの、自らの映画体験とこの10年は分かち難くむすびついており、ふりかえるにはぴったりの時宜。映画史的に云々とかそういうことはふっとばして、自らの思い入れや好きというきもち先行で選出してみたい。ただ、10年代に制作されたものにかぎってしまっては、ラブな映画は100もないのではという気もしている。年始にやってみましょう。
詩からすこし離れてしまって、昨年から小説の執筆を人生の伴走行為としておこなっているわけだけれども、そうではない長い文章を書かねばというきもちがふつふつと湧きあがってきている。ここでいう長い文章というのは、このようなぶつ切れのテキストの集積ではなく、ひとつのたしかな持続性をもったテキストのことである。そのためには家にPC環境をととのえねばと思っている。なぜならば、物理キーボードを使ったタイピング入力と仮想キーボード上でのフリック入力の書き味がまったくちがうから。小説を書く際もだいたいはスマホで書いているが、3-40枚ぐらいのまとまった文量になってくると、PCでないと全体を見渡すことがむつかしくなってきて、言葉のくりだしかたも近視眼的になりがちで、というかそもそもスクロールするのがめんどうで、執筆に余計なストレスがかかってくる。スマートフォンのちいさな画面だと、じっさいにはたいした長さでもない文章がけっこうな量に見えてしまうのもある。PCのディスプレイで確認して、そのつつましさに愕然とする。
先日わたしの数少ない盟友であるデザイナーのあんどうくんとひさしぶりに酒を飲み交わす機会があり、その際にもPCを買った方がいいと熱弁され、まったくそのとおりであるのだが、なにぶん金銭に余裕がなく、PCを買うとなれば必然的にadobeやネット環境も導入せざるを得ないわけで、それだけのマージンがわたしのいまの生活にはない。これは将来独立してやっていくぞと豪語しているわたしにとって由々しきことだ。転職先を探していると、しごとの内容にはさほど惹かれないのだが、給料がいまの2倍ほどに跳ね上がってもおかしくない求人があり、心がゆれることがある。そういう会社で金を稼ぎながら、独立に向けてうごいていく生き方もある。生き方の問題、乗代雄介の新刊がとってもたのしみですね。
来年は新しい人になる、と決めた。