明け明けとする畳の目にゆび

たたかうためのテキスト、檄文、アジビラ、を書いている、いってみれば詩もそうだが、より直接的な文章、扇動、プロパガンダカウリスマキが『希望のかなた』のパンフレット(いい編集だった)でいっていた、本作は傾向映画であると、つまりはそういうメンタリティのもとに、誰かに何かを伝えていく、ゆさぶっていく、そのバランスをどうとるか、ユーモアをふりかけるのがいまはだいじかなと思っている、、こういった類いのテキストの執筆はたのしい、メディアメディア、ZINEをつくらねば、


現代詩手帖』(2018年1月号)の佳作に選ばれた2編のうちのひとつ「闘呼のふるえ」は2月の展示で装い新たに作品化しようと試みている、詩のボディの変態として? よいものにしたい。


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昨年ぜんぶ観た、ユージン・スミスがよかったな、それはやっぱりエディトリアルってことなんだろうな、おれの好みの話なんだ


正月休み自体は例年通り、もしくは少ないくらいなのだが、この頃休みがなぜか多いので心身が健康にある、この健やかさはけっこう厄介で、ふだん健康になりたいとかいっているくせにいざなってみるとだらだらだらだらとその安寧に身をゆだねてしまって腰砕けになってしまう、へし折れた両脚、開脚もサボってんだよ、だめねえ

殺伐としたモードがいちばん生きてる感じがして、キレキレで、バリバリなので、明日はエンジン入れなおして、2018年の開幕を華々しく告げるような、何、何がある? 何もねえね、何もねえへ、アートスクール木下理樹もびっくりの何もなさだよ、ラブヘイト聴いて目覚めていこうな、2017⇒2018の音楽はバトルスだったよ、フェニックスの来日公演で会おうな、豊洲ピット、まだいったことないんだ

精神のもえつき

年がかわる、そのまえに更新する、29にしごとがおさまった、30に映画納めをした、ブニュエルの『皆殺しの天使』、、おもしろくなかった……カウリスマキの『希望のかなた』とはしごしたのだがイメフォいかずに帰っていればよかったな、もうブニュエルを観ることはないだろう、『ブルジョワジーの秘かな愉しみ』だけ観たことがあったのだがやってることいっしょじゃんね、、落胆、いや落胆してあたらしい年を迎えたくないな、よかったこと、なんだろう、したの階のひとが引っ越していったので爆音ミュージックナイトが家でできるようになったことかな! 来年は世にうってでてゆく年にします、どうぞよろしく◎

コーコーとてるじゅっぽんのつま先

1_ WALL グラフィックの二次審査へゆきました。1対1or2の面接×6という形式で、はじまるまえはこれは消耗戦だなと思っていたのですが、おわってみるとそんな感覚はなく、むしろおわりに近づくにしたがってなぜか高揚していくというような感覚を受けました、なんてレポート書こうとしてたんですがファイナリストのこりました。


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展示は2018/2/20(火)-3/16(金)、銀座ガーディアン・ガーデンにて。詩からグラフィックへの殴り込みであると同時に、グラフィックから詩への侵犯といいうるような作品および展示になると思います。またちかくなったら告知します。


脳が展示のほうへいっちゃって、いろいろ観たり読んだりなんだりしていることがらを言葉にのこせずにいる、とりあえず記録として、ここに書いておく。

さいきんいったところ/みたもの
山拓郎、山本悠「ポリネシアンじゃだめですか?」@タリオンギャラリー(目白)
山内祥太「ポチョムキン」@ギャラリートゥプラス(自由が丘)
「アジェのインスピレーション ひきつがれる精神)@TOP Museum
「無垢と経験の写真 日本の新進作家vol.14」@TOP Museum
「生誕100年 ユージン・スミス写真展」@TOP Museum
パブロ・ララインネルーダ』@恵比寿ガーデンシネマ
アンナ・ザメツカ『オラとニコデムの家』@ポーランド映画祭(TOP Museum)
「1968年 -無数の問いの噴出の時代-」@国立歴史民俗博物館(千葉・佐倉)
つつのくつした展@ガーディアン・ガーデン
サクラコの部屋@四軒茶屋
「オオカミの眼 The Iris of a Wolf」@ブロックハウス(原宿)
長谷川有里「Since I First Met You」@ユトレヒト
蒐集衆商@スパイラル
加藤翼「40,000kmのなかの数メートル」@無人島プロダクション
金坂健二、ジョナス・メカス「WARHOL――underground america」@ときの忘れもの(駒込
しぇあすなっく「ポエポエ」@スパイラル
キュイ『前世でも来世でも君は僕のことが嫌』@アトリエ春風舎(小竹向原

とびだせ、殴れ、おまえの置き去り

ひとりぶんの期待、ひとりぶんの責任、ひとりぶんの自由。おれのキャパはどうしてこんなにすくないのか、もっとおおきなかまえかたを習得したい。自己のゆらぎの包括を、もっとやさしく、もっとしたたかにできるように。

ボグダン・ジヴォルスキ「ジヴォルスキの傑作ドキュメンタリー」(『アイスホッケー』、『クラシック・バイアスロン』、『人生の舞台』、『フェンシング選手』、『フランツ・クラマーとスキーの風景』の短編5本)@ポーランド映画祭(TOP Museum)、すばらしい! まだまだしらない優れた作家がいるものだと感動した、映像というメディアであることの意義を手ばなさずに映画を撮っている、あたまのなかにすでにイメージができているからこそのフレーミング、ショット、そしてそれを際立たせる卓越したサウンドエディット、どんな題材も芸術の域にまで高めてみせるというエネルギーを感じた、これまで日本で紹介されていないなんてもったいない! つぎは12日(火)19時から、場所は写美ことTOP Museum、恵比寿、このブログ読んでるすーぱーセンスのいいひとたちはみんな観にいってくれーーー

それぞれの作品にもちょっと触れる、いちばんはじめのアイスホッケーのドキュメンタリー、お化粧をした子供の選手の顔のアップからはじまる、この最初のカットからして勝利だと思った、おしろいとくちべに、晴れ舞台にのぞむ、もろさを孕んだすこし緊張したおももちのうつくしさ、ジヴォルスキの作品の特徴のひとつはサウンドを後付けしていること、不要な部分はすべてそぎおとし、必要なところだけをくわえる、その贅肉のなさが、映像というメディアを信じている作家の姿勢のあらわれとしてぎらぎらとしたかがやきをはなつ。

にほんめ、スキーをこんなにかっこよく撮った映像ははじめてみた、雪上のおばちゃんの華麗なバックステップからはじまって、なんだなんだユーモラスな作品なのかと思ったらすさまじいフレーミングのカットの連続でベリエクスペリメンタルかつベリクール! 松本俊夫が生前観ていた作家なのかどうかはわからないが、彼もきっとよろこぶであろうまごうことなき前衛ドキュメンタリだった。どうやらこの監督は写真も撮るようである。ボグダン・ジヴォルスキ、しかとおぼえた。


バルトシュ・M・コヴァルスキ『プレイグラウンド』@ポーランド映画祭、ハネケ、トリアー、ザイドル、デュモンなどなど悪意の映画作家が大好きなおれとしては新たな作家の登場にうれしく思うのだが、おそらくこの監督はおれとおなじような好みをしているはずで、なのに(がゆえに?)いま一歩踏み込みが足りないというか二番煎じでおわってしまっている気がする、ドラン同様MV通過世代を感じさせる、音楽がガンガンかかる演出は◎、手持ちカメラ主体の撮影や、時系列をバラした構成など、作家自身の「映画を撮ったるで!」という欲望、野望、野心がつたわってきて、そこはとてもよかった、やっぱりこういうパッションが作品にうきあがってきているものはよい

鏡、つまりは自己を確認すること、貧乏アパートに暮らすワルガキ、金持ちのでぶでうぶな女の子、父の介護をいやいやする少年、その三角形で序盤はすすんでゆく、悪意は純粋なものとしてではなく、理由づけられた階級闘争のあらわれとしてもみえる、実際あった事件(ジェームス・バルガー事件、何もしらずに観たほうがたのしめると思うので詳細はここでは書かない)が下敷きにあるようだが、その現実のパワーをこの映画が乗り越えていたかと問われればうーん、、というところ、とはいえ興味深く観た、似たようなテイスト、というか悪意の作家の作品でいえば、マルクス・シュラインツァー『ミヒャエル』やマイケル・フランコ父の秘密』あたりとおなじくらいには

プレイグラウンドを観て印象的だったのは坊主姿になって登校してきた同級生に対して「アウシュビッツみたいだな」というような冗談が飛ばされていたこと。ポーランドの小学生はそんな感じなんだな。


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チェルフィッチュ『三月の5日間』@KAAT、うーん……、男ふたりとつぎのシーンでおわりですよと終幕を告げる女優はよかったがそれ以外はあんまり、、とくにドアタマにででてくるひとはとうに切り捨てたはずのチェルフィッチュなのでは、、? という疑問が、、ゆえに冒頭にだし、その後は切り替えのスイッチ/ノイズとして作用させているとすればまあ納得はいくがそれは妥協の産物としての、苦肉の策ではないか、そうだとすればそもそも演者がかわいそうだ、つまるところ手放しの絶賛、みたいなところからは遠く離れた地平にあると思った、小説版の方が断然よい、ちなみにおれは初演を観ていない

▽上記のことを整理したツイート
『三月の5日間』、いわゆる「チェルフィッチュ」は過去のものとなった、20周年という節目に為された決別の宣誓、その象徴としての第一声。そこにおれは乗れないが、男たちと終幕を告げる女のよさをどう説くべきか。本作は手放しの絶賛からは遠く離れた地平にあり、むしろそれらを拒絶するためにある

で、ツイートの翌日に公開されたインタビューを読んで、自分の眼識のうえにあぐらをかいたわけなのだが、逆にいえば作家の意識をこうして明確に伝えられる上演になっているということでもある。それ自体はすばらしいことだと思うが、その内実が演者や観客にとって幸福なのかと問われればちがうだろと答えたくなる。「演劇界」と巨視的にみればいいのかもしれないが、なぜそんなものにつきあわされなくてはならないのか? 本作の照準は上演ではなくオーディションの方にあるとしか思えなかった、好評を得ているようだがその称賛の対象はこれから作家自身が踏み台にして飛び越えようとしているものであり、それらを拒むための一里塚として存在しているに過ぎないのではないか。

であるがゆえに、よかった俳優たちについてわたしはいったい何をいえるのだろうかと立ちどまってしまう。だが、たとえば、彼ら/彼女らの立ちあげることのできる質感が、『部屋に流れる時間の旅』においてどう作用するだろうかと想像してみる。その先に、岡田利規の目指すものを視ることができるのではないか、そんなことを思う。

あと衣装がよかった。とくにヘソがめちゃくちゃ効いていた、演劇を観て衣装がいいなんて思うことははじめてかもしれず(マームのカッコよさとはべつの次元、観客の意識へのはたらきかけが衣装を通してなされるということ、ミュージカル的な衣装ともまたちがう作用のしかた)、その際立ちはすごかったと思う。担当の藤谷香子はFAIFAIに所属しているようだがまだ観たことがないんだよな、、志郎康の教え子たちというところからも気になっている、まあいずれ観る機会があるだろう、

はりあいがないか、編み目をぬけでる

ヴィータリー・カネフスキー『動くな、死ね、甦れ!』@ユーロスペース、よい! 子供のはつらつさ、その生意気なかがやき! とにかく四六時中うるさく叫びつづける発話、会話、命を燃やして話している、生命の発露としてのヴォイス、スターリン政権下のしばられたところ、大人たちが牛耳る「圧政下」で鮮烈な火花をちらしながら燃え尽きていく少年少女。極東のいなか町、貧困の村落でちからいっぱい生きてゆくこと。「『大人は判ってくれない』を超える傑作」とDVDのセールスコピーにあったが、さもありなんのすばらしさだと思った。すくなくともおれは本作の方を推す(『大人は~』も好きだけれど!)

エーリック・ブロンベリ『白いトナカイ』@ユーロスペース、おなじ『白い~』でも雪の美しさは決死隊に軍配が上がるか、主演女優の目力がすごい、まがまがしさとうつくしさをそなえた、まさに吸血鬼にぴったりの配役、ヘルツォークノスフェラトゥ』のクラウス・キンスキー、サム・ライミ『悪魔のはらわた』のウド・キアーを思いだす(年代はトナカイの方がだんぜん古い)、雪そのものよりも、雪原をのっそりと駆けてゆくトナカイにうっとりする、あの脚の湾曲、過剰な音楽の印象、物語を駆動させるものとしての音楽、炎を囲みさわぐシーン(おまつり?)の火のゆらぎもとてもきれいだ、

むかしの映画を観ていて感じるのは画に対する情熱のつよさだ、もちろんいまの映画もその意識は流れているのだろうが、そのアベレージのたかさがぜんぜんちがうのではないか? と思ってしまう、物語性なんぞに映画を食い尽くされてはならない、と松本俊夫フォロワーのおれは思うのだった、いや単純にいい映画が現代に残っているだけでよくない映画は淘汰されてるだけだよという可能性も充分ある、勉強が足りない

主人公である吸血鬼の女がキリスト教におそれをなすのは十字架と吸血鬼のアナロジーとして? それとも精霊信仰との対立として? 途中ねむってしまったためそこらがよくわからず、もったいないことをしたなと思った、ちなみに本作の吸血鬼は満月の(?)夜に白いトナカイに変身するというスーパーなバンパイアなのだ!


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トーハクは建物自体もカッコよかった、常設もボリュームありすぎで運慶観るまえにけっこうつかれてしまっていた


ユーロスペースはいつのまにか自由席から座席指定にかわっていて、入場時にびっくりした(買うときには席を選んでいるのにもかかわらず気づかなかったのである!

去年は映画をたいして観にゆけなかったのだが、今年はわりとたくさん観ることができていて、学生の頃の水準までもどせそうである。美術館やギャラリーももりもり、はたらいてるのによくやるなと思うが、削られているのは演劇やライヴで、オウガのワンマン、バックホーンのマニヘブにいきたいなあでもなあとゆらいでいるのだった、そもそもチケットのこっているのか、そのまえにジャパニーズブレックファストの来日公演、エービーバーディウォンツトゥラービューーウ、エビバデウォントゥーラービューっ!

ロングフォーム、助走するパ

運慶展とあわせて古代アンデス文明展にも足を運んだ。トーハク同様、カハク、国立科学博物館も生まれてはじめていったのだった。運慶がうしろにひかえていたためにざんねんながら常設展は観れなかったが、あらためておれはエスニックな文物、土偶やはにわめいたもの、テキスタイルが好きなんだと、、書いてたものが消えてしまったのでおわり。


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ねこぢるにでてくるひとに似ているね


横トリ3回目の話、黄金町バザールbankart、どっちもよかったよ。毒山凡太朗、宇佐美雅浩。であえてよかった。日産アートアワードの話はしたっけ? 田村友一郎サイコーだったよな、だから栃木にいったんだよ。おれがまだアートにさほどきょーみがなかったころにメ芸祭で観てたんだねえ、、記事がいっかい消えたからもうおれはやるきがない、白米をたらふく食いたい、

〆切前の、死ぬか生きるかの瀬戸際で、脳が焼ききれそうになりながらひいひいひいふういっているときがいちばん生きてるって感じがする。ドマゾでしょうか。この山を20代のうちにあと何回越えられるかでおれのこんごが決まる。来年は世におどりでていく、その布石を打つ。きょうおれはひとやま越えたつもりだよ。