好き勝手に立ちあがったり手をふったり舌をみせたりする

家にいるときからだをべちばち叩く癖があるのだが、『MR.GAGA』でも『ST SPOT 30th~』でもそうしたうごきがあり、やはりこの身体音楽は鼓動のリズム、地球のリズム、宇宙のリズムと同期する〈わたし〉の発露なんだと熱弁をふるったのだがいっしょに住む恋人にはうるさいと一蹴された。

ものをたたく、原始的な音楽。

『MR.GAGA』、身体で語る、身体でわかる、つまりはことばにしばられずに交流できる、それは音楽と通ずる、作中多用される音楽と、並外れた数々のムーブメント、断片としてのうごき、はたらき、からだでむすばれる関係性は軍や死や国境をも越える、

ダンスがしたい、さいきんはシャワーを浴びたあとにからだをむりにのばしている。目標は年明けにY字バランス。お金に余裕ができたらバレエのレッスンか、コンテンポラリーの教室にでも通いたい

『ST Spot 30th Anniversary Dance Selection vol.2 ダンスショーケース』、Aokid、30周年、つまりは30年間、いままでに鳴らされたことない、使われたことのないスペースにひかりをあてるパフォーム、とにかくたのしそうにやる、はにかむ額田大志、ぎこちないからだ、その魅力をひきだすAokidのパワーがすごい、あらゆるものごとに秘められたちからをぐんぐんと巻き込んでゆく、いいな! まざりたいな! と思った

モモンガコンプレックス、ハーモニカってこんなことまでできるのか、とまずは演奏に感動、対するダンサーたちがそれと互して闘えていたかは疑問、ユーモアのたてかたも身体に発するではなくコントの文法、技量ではなくべつの軸のうえに立ち、おどっている、ダンサーである女性3人の力量もバラバラで、そのちぐはぐした感じを魅力ととることも可能ではあるが、、

岡田智代、減算の身体、乗算でも足算でも割算でもない、そんなことを思った、この身体はどこにルーツがあるのだろう、舞踏? 寝てしまった

岩渕貞太、ナルシシズムの身体、つまらない、なぜなのかをいま思いかえして考えてみる、意識の向けかたの問題かもしれない、観客に対して何かをコンセプション(岡田利規)させようと思っているようでもなく、「踊るわたし=演じるわたし」へと安易に寄りかかってしまっている、つまりは意識を「いまパフォーマンスをしている自分」に対して向けていない点に尽きるのではないか、ごつごつとした骨のダンス、ポテンシャルを秘めた肉体だとは思うのだが、寝てしまった

これまでダンスをそれほど観ているわけではないわたしはここにでてきている面々が日本のダンス界でどの水準にあるのかわからないが、そんなわたしでもよく名前をきくひとたちのパフォーマンスがこんな感じなんだと目にしてちょっとがっかりしている。観ていてどんどんテンションが落ちていった。いやおまえの見方がおかしいんだよという識者の感想に姿勢をただされたいと思いつつも、中身のない「よかった」か、うごきのディティールにつめよったようなものしか見つからず、見解を更新してくれるようなものにはであえていない。

運慶展、展示されている彫刻/身体の、瞬間に懸ける意識のはりつめかたがすさまじい、これはダンスや演劇にバリバリ輸入できるじゃないかと帰りの電車で思った。観客の身体にももっと注意をむければよかったなと思いかえしている。リアリズムでないものがリアリズムをもつこと、

演技をする際の演者の意識にだいぶおれはこだわっていて、それはちょっと豊かじゃないなとその問題について書くたびに思ったりもするのだが、ほんとうにいい作品っていうのは観客に対してそんなところに目をやらせない、べつの箇所でぶっちぎっていくわけで、やっぱり前提として踏まえていないものに対してはどうしてもきびしくなってしまう。

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トーハク、恥ずかしながら生まれてはじめていったのだった、とっても野焼きしたくなった

北伐

方言/標準語(日本語/英語)、イギリス/EUというナショナリズム-ローカリズムインターナショナリズム-グローバリズムの対比のなかで、多様性/画一化の見地における移民受け入れははたしてどちらの側に立つのか。個人の自由と反ネオリベの両立とは何を以てそうできるのか。亡国時代の岐路において、わたしたちは何を以て多様性というものを名指せるのか。


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群馬と栃木へいった。いくまえはせっかく遠出するのだし、旅行記的なものでも書くかと思っていたのだが、帰ってきてしまうとぜんぜんそんなきもちにならないのだった、いつかこのきもちをあふれさせようとおもう


小山市車屋美術館、めちゃいいとこだった。地域に媚びずにその風土/住民を作品化し、それでいて観客を地域にクロスさせる田村友一郎の手管には、凡百の地域アートにはない洗練度を感じた。文化の日で無料開館かつ隣接する小山邸もていねいに案内してもらって大満足。図録買いそびれたのがショック

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ヒツクリコガツクリコ@アーツ前橋/前橋文学館、なぜミヤギフトシ? とか展示作家とその構成にいろいろ疑問はあるのだが、クエイ兄弟みたいなミニマムなのに驚くべきダイナミズムをそなえたムットーニのからくり箱や、壁に頭を垂れるわたしが、〈主の愛を語る〉遺言としての声をきくという振付/はたらきかけを受ける山川冬樹インスタレーションなどおもしろいであいはいくつかあった、文月悠光の朗読もちょっと聞けた、鈴木志郎康日和聡子、江代充、松本圭二の図録を買った

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西洋亭市のソースカツ丼(ロース)。うまし。給食みたいなおぼんもよし。


佐藤晃一展@高崎市美術館。めちゃくちゃよかった。一階の若いころのとがりにとがった作品たちをながめていると胸がぢりぢりするというか、ひりひりするような感動をおぼえた、平面作品でこれだけゆさぶられたのははじめてリヒターの絵を観たとき(近美)か、DIC川村記念美術館のロスコの部屋にいったとき以来かな、でも今回はそれらのときとはちがって、胸をかきむしられるような焦躁にみちた感覚だった、いちどはいっしょにしごとがしてみたかった(わたしの上司はよくしごとをしていたのだった)、負けてられねえと燃えた

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閉館時間の関係上、2時間弱しか滞在できなかったのだがあともう一周、つまりはもう2時間ほしかった……


アガンベンがおもしろい。ビフォといいラッツァラートといいネグリといいおれのなかでイタリア現代思想がアツい。ムッソリーニの伝記もおもしろい。イタリアの映画、そんなに観ていない。パゾリーニ、アントニオーニへむかうときがきたか。どこか特集上映おねがいします!

内なる帝国(迷彩のフラッグ)

さいごにいうと、から2-3時間話をつづけるひとが中心の会議をいくつも乗り越えることで得るものについて。

ラヴ・ディアス『立ち去った女』、長さはちからである、その持続との対峙から生まれる〈つかれ〉は達成感と似た質感をもち、何かとともに過ごすことの効力を感じさせられる、聖母としての女、3つの名、マザー・テレサの死、復讐の共通項、スティグマを背負ったひとびと-ゆるしの関係、取り調べのカットのサスペンス、固定カメラ長回しの反復がはじめてとぎれるとき、あ、この作家は自主映画のような熱意のひとなんだと理解した、そうだよな、撮影・編集まで自分でやってんだもんな、〈なにものか〉はつねに奥からやってくる、奥行きの映画

強度をつくるながさ、だがそこに寄りかかってはいけない、本作の長さに必然性がなかったかと問われればいやあったと思うのだが、観おわったときのうちふるえをあまり感じられなかった、序盤にくりかえされる30年分の慟哭や、おなじ時間をともに過ごすことを意識させる、かなしくてもあかるさをもって生きる魅力的なキャラクターたち、デジタル撮影を2階調化にした白と黒のきょうれつなコントラストなど、目をみはる点はいくつもあるのだが、ちまたでもてはやされているほどのりきれなかったのが正直なところだ。


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単色のリズム 韓国の抽象@東京オペラシティアートギャラリー、ぼちぼちよかった、つぎは谷川俊太郎展やるらしいじゃないですか、「ヒツクリコ ガツクリコ」@前橋文学館で観たoblaatの電光掲示板を流れてゆく詩よかったな、顕微鏡のものは子供たちがぎゃーぎゃーさわぎながらずっとにぎりしめていたため観れなかった、何の催しが同フロアのホールでおこなわれていたのかはしらないがここは展示空間、文化的再生産ではないところ(たとえばわたしは映画も美術も演劇も東京にきてから親しいものになった)で、もうすこしなんとかならないのかと思わざるを得なかった、ノイズが走ること事態はよいのだが、わたしの不徹底/ゆらぎが露出する場面のひとつである


意味のないことのつらさにわたしたちは残業をとおして気づく。ああわたしはいま意味のないことでわたしを消耗している、時間を無意味なものとしてきつく矯正されている。だからせめてもの抵抗としてそこに意味をつくりだそうとする。ひとはあらゆるものに価値を見いだそうとする。それを利用して資本は駆動する

さいごにいうと、はひとつの会議で複数回くりかえされる。

想像図はつねに先取りを予期している

詩手帖の中間合評対談、つまりはまいとし11月号には息切れしてしまって投稿しそこねがちだったのだが今回はぶじ投稿でき、なおかつ佳作に入っていたので、あるていどの文量をさいて作品に言及がなされていた。こうして自作が読まれているという事実が何よりうれしいし、ゆえにまた書き継ぐことができる。しかしもう投稿も5年目であり、今クールでいちど区切りをつけて詩集の編集にシフトしていきたい。編集・デザイン・執筆すべて自分で為すすーぱーインディペンデントな感じですすめていきたい。問題は、海外製の、日本で流通していない紙を融通できるのかということ。技術も含めぐっどな印刷会社/製本会社を見つけられたらよい。

新文芸坐シネマテークにてアンジェイ・ムンクを2本観た。アンジェイ・ワイダ、イェジー・カヴァレロヴィッチとならぶポーランド映画界の巨匠で、39歳のときに交通事故で亡くなってしまった夭折の天才ということだ(アンジェイときけばあたまにうかぶのはワイダの方で、しかもその作品はひとつも観たことがない体たらくのわたしはムンクのことを観にくるまで名前すらしらなかった、ちなみにカヴァレロヴィッチのことも、いつもおもしろい講義をありがとう大寺さん!)。ポーランドでもヌーヴェルバーグと同時代的に数々の傑作が生みだされていた、それをまざまざと感じさせてくれる作品たちだった。

『白い決死隊』、雪山の美しさ、映画は白と黒の世界、その白さのなか、明るさのなかで、ポーランドの山小屋に横たわる病傷兵を、第二次大戦末期の救出劇を描く、黒いちいさなひとかげが、まっしろの雪原を悠々とすべってゆく……

『鉄路の男』、きょうれつな正面からとらえた顔の、切り返しカットの連続、からのズームアウト→回想への移行、永遠に続く機関車の滑走からなるファーストカット、鋼鉄の肉体ともいうべきちからづよい車体の描写、心の機微をていねいに、つつましやかに映像化した演出・画が支える繊細なミステリ

東京デスロック『3人いる!』@STスポット、デスロックが志向するのは「演劇の枠組みの破壊と再構築」だと『CEREMONY』しか観たことない身分ながらにそう思っているが、本作においても「わたしではない役」を「わたしが演じる」という役者/演劇の構造を用いたメタフィクショナルな作品に仕上がっていた、わたしではない誰かをゆびさそうと試みるわたしがわたしをゆびさしてしまうとき、それはなにをゆびさしているのか、なにがわたしとして、なにがわたしではないものとして示されるのか

なにかおおきな出来事が起こるわけでもなく、「わたしがふたりいる」という状況のもとに、役者3名の会話のみで物語を駆動させていくその武骨さがよかった、『再生』も観たかったがまあよかっぺ


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表参道はハブモアカレーのカレー、うまい、イメフォやスパイラル、ユトレヒト、青山ファーマーズマーケットなどに足を運んだときによいごはんやを見つけられていなかったのだがこれからはひと安心


いま読んでるのはニーチェ『偶像の黄昏 反キリスト者』(筑摩書房)、ロマノ・ヴルピッタ『ムッソリーニ』、野中モモばるぼら『日本のZINEについて知ってることすべて』(誠文堂新光社)、『デザインのひきだし32』(グラフィック社)、ソポクレス『ギリシア悲劇2:ソポクレス』(筑摩書房)、橋本シオン『これがわたしのふつうです』(あきは書館)あたり。ソポクレス、「プリュギア」という言葉がでてくるたびにおれのプリキュアスピリットが熱を帯びる。ニーチェははじめてちゃんと読んでるけれど、いまのところぜんぜんおもしろくないのだった……

アーキテクトの文明論

3331で小山友也のふたつの展示を観る。2014だか2015の五美展に出品されていた作品のなかで断トツにおもしろかったのでおぼえている、街中や本屋などのイヤホンの音漏れの音で踊るという、プライベートとパブリックの境界を突き破るパフォーマンスを記録した映像、その前年は田中良典(田中良佑)がいちばんよく、アンパンマンマーチをラジカセで流しながらアンパンマンのコスプレをして終戦記念日靖国神社を行進する映像(やなせたかしは従軍しており、弟は回天に乗って爆死している)と、戦闘機の製造にかかわっていた祖母に粘土で戦闘機をつくってもらう映像と、祖父にテレビのバラエティ番組を模したスタイルで軍歌を歌ってもらう映像から成るインスタレーション、またおなじ頃の藝大の院展で観た五十嵐耕平『息を殺して』が心底すばらしい作品、わけのわからないままにうちのめされる稀有な感覚を味わえる映画、ちかぢか『若き詩人』のダミアン・マニヴェルとの合作『泳ぎすぎた夜』が公開される、いま挙げた3名すべて、もっといえば先日すばらしいダンスパフォーマンスをSTスポットでおこなったAokidも造形大卒、この磁場、造形大はいい作家を輩出しているなと思ったのをおぼえている、


泳ぎすぎた夜』予告編


ふたつの展示といったが、3331内のふたつのスペースでそれぞれ個展を同時期におこなうというおもしろい試みで、ともに印象深い作品に出合うことができた。まず一階の『Remaining Methods』、部屋に入るとまず目に入ってくる「BEHAVE AS YOURSELF」という文字がでかでかと掲げられた、大きな壁いちめんに張りだされたグラフィティちっくな巨大な人体コラージュ《BEHAVE AS YOURSELF》と、展示空間の中心部に配置された、ねじまがった物差しが突き刺さった白い箱《ダンスをする直尺の彫刻》、既存のスケールを逸脱していくことが宣言されるこのふたつの作品を核に、ふたつの映像と一連の連続写真から構成されていた、

タイの学校らしき場所で膝をかかえて静止した作家自身(と思われるひと)を、異国のひとびとが協力しあってどこか(美術館? ギャラリー?)へと運んでいく映像《Passing thorough there》、段ボールとダンスするようにコミュニケートするさまを連続写真でとらえた《Singing together》、とくによかったのは、3331の入り口の自動ドアのところで反復横跳びをしつづける映像《越境のためのハードワーク》、この会場にくるために必ず通らざるを得ない、先ほどとくに注意することなくまたいだ内と外の境界線の再認識をうながしながら、無意味とも思われる脱コード的な反復行為によってその意味づけをさらに変容させていく、そしてそうした自由と力を、わたしたちもまたもっていることに気づかせてくれる、勇気の作品だった、世界との、他者との関係性を既成のコードからずらし、そこにゆたかな潜勢力を見いだす、まだまだわたしたちはわたしたちとしてやれることがあるさ、過労する身体の奥にたたずむキックボードに乗った少年が跳ぶさまをうかがっているようすもよかった、しばらくして颯爽と地面を蹴りとばしカメラのフレームから消えていった、

二階の作品は何かを神妙に思案する壮年の男の顔が27分間(うろおぼえ)固定カメラでとらえられた《いままでで一番ロマンチックな性行為を思い出す》(うろおぼえ)がすばらしかった、ぜんぶは観なかったのだがアイデア勝ちだと思う、おもしろい、つよい、また作品として受付に展示されていたステッカーが500円で売られていたので買おうと思ったのだが、その受付前にギャラリストとずっーーと話しつづけている男がたたずんでいることに遠慮してしまい買わずにでてしまった、ちゃんとビヘイブしろよおれ、

横トリににどいっている(きょうさんどめのアタックをした、それについては後日書く)。まだすべてまわりきれていない。観たなかでよかったのは、レーニンをディカプリオの格好、それも彼の主演する映画内の役柄の格好(『インセプション』のコブ、『J.エドガー』のJ・エドガー・フーバー……)をさせて肖像画化し、共産主義と資本主義(ハリウッド!)の二重化を図ったザ・プロペラ・グループの作品@横浜美術館、祖母の家にあるあらゆるもの(祭壇、タンス、窓、料理、カーテン、ドア……)をキャンバスに刻印し、それを部屋の間取りに準ずるようなスタイルで展示空間に並べたてたドン・ユアンインスタレーション《おばあちゃんの家》@横浜赤レンガ倉庫1号館、さまざまに組み合わされたミキサー、洗濯機、ドライヤー、ギターなど、多種多様な家電や楽器の駆動音と、それらを照射する光とライヴカメラによる宇治野宗輝サウンドインスタレーション《プライウッド新地》@横浜赤レンガ倉庫1号館。いまのところ前回(2014)のほうがよかったかな!

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レーニンはいいよな


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無性にいとおしさを感じる本作、モデルとなったおばあちゃんの家は区画整理のために取り壊されるという


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ギュインギュイン! ちなみにおなじ部屋に展示されていた歴史的な銅像を力持ちたちがあつまってもちあげるパフォーマンス《重量級の歴史》(クリスチャン・ヤンコフスキー)もめちゃおもしろかった



組版造形@gggと1_wall@ガーディアン・ガーデン、亀倉雄策展@ノエビアギャラリーを友人ふたりとまわり銀座グラフィックまつりをしたあと鱈腹魚金、ルパンをはしごした。荒木悠の展示を観てからずっと食いたかった牡蠣、せっかく食えた牡蠣が、ハズレで泣いた。まずかった、かなしかった、だれかいっしょにうまい牡蠣を食べにゆきませう、ニュウマンのとことかよさそうだ、もうすこし寒くなってから、いっしょに牡蠣を食いましょう、

帰巣の準備体操

5-6時間の会議、というより聞くこと、発言せずにただひたすら話を聞くことがザラである「労働時間」をいかにしてポジの力に反転させていくか、その思考と試みに疲労をおぼえている。おれはつかれた。

話すことは快であり、聞くことは不快である。
知ることは快であり、忘れることは不快である。
解放-抑圧の図式、聞くことの不快に、知ることの快は勝りうる、忘却を話すことによって昇華する、

教育の問題だ。おなじ話をくりかえしくりかえしなんどでもなんどでも刷り込む。ともにある時間の長さがそのまま学びのゲージに照応する。たとえば徒弟制度、書生、職人の工房、そうした場のもつ教えの力をおれは否定しない、だがつかれた。おれはつかれた。

だがこの一連の文章も抑圧の解放としてあるわけで、この筆記行為自体が反転する力をもっておこなわている。

こうして仮説を立ててゆくことが、出来事を腑わけしていくことが、わたしを鍛える。つまりは、あきらかに無駄と思われる長時間の「耳を傾ける」が、結果的に思考のきっかけとちからをもたらす時間として浮かびあがってくる。だがしかし、おれはつかれたのである。

線形サンダーブレーク

外山恒一トークイベントでありえないと思ったのはだれだかしらないがおれが席をはなれているあいだに飲み物が入ったコップをひっくりかえしてひとのかばんといすをびちゃびちゃにしておいてそしらぬかおで放置してゆくその心胆だよ、会自体はおもしろかったし、活動家たちはまだバリバリやっているんだとか、自分よりも若い10代のひとたちもけっこうきていて政治的身体はこうして脈々と云々とかいろいろ刺激を受けた夜だったのだがその一件で心底萎えてしまった、こうしてまたおれの偏見が増長されてゆく、ラディカル、ラディカルへ

廣瀬純がいうひとは勉強すればかならず左翼になるというのは実感として真理だと思っているのだけれど、このベクトルは左翼を通過して右翼に行き着いたりもするんだろうと思った、質問で時間のスパンの話がでてきていたが、そもそも右翼も左翼も時と場所が変われば入れ替わったりまざったりしているわけで、それぞれの人間がそれぞれの思考の強度を獲得していく行為をつきつめていくことがよりよい世界の実現(左翼的?(笑))のためには必要だと現時点ではかんがえている

トーク中にメモしたのはこんなもの、階級闘争の代替物としての反差別、マルクス-レーニン主義ひくマルクスファシズム、排外主義と反グローバリズムの相剋。

トーク、アジアンアートアワードでもアーティストトークをきいた、メモしたのはこんなこと、トーククリシェに回収されることへの抵抗、何らかの意味性を反転させること=ガマを人々が生きのこった、生の場所として考える、ヴィリリオの「事故の博物館」とメディアアートクリシェについては言及があったわけではなく話をきいていてそう思った、紋切り型の言語活動からいかにして離脱するか、突飛さの有用性について、たとえば山城知佳子がいっていた「どこでもない、(がゆえに)どこでもある」……、渡辺豪展「ディスロケーション」@横浜市民ギャラリーあざみ野のステートメントでもみた、相互認識のためのコードの更新を図ること、それは観者のリテラシーにも深くかかわる問題だ

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横浜市民ギャラリーあざみ野は新井卓展ではじめていったのだが、とてもよい感じの場所でおすすめ

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そういえばサンシャワーにもいったのだった、全体的に国新美の方がよかった

展示自体は山本高之の作品がおもしろかった。出品されていたのはそれぞれ人間ひとり分のサイズの段ボールに入った中学生たちが、ひとりで、ふたり(搭乗機となる段ボールが連結される)で、全員で……と体育館でうごめく《Dark Energy》や、わたしに嘘をついてくださいと道行くひとに嘘をついてもらう《Lie To Me》のふたつ。トークもフェイスタイムを介してロンドン-東京間でおこなわれたのだが、接続不良による間だったり断絶だったり、山本自身の飄々とした話っぷりが魅力的だった。トークイベントの司会であり本アワードの審査員でもある小澤慶介が、自らの読解も踏まえながらこのふたつの作品はどんな理由で出品したのかと問うたときの「いまやれることを精一杯ね、やっただけです」といったようなニュアンスの答えは、一見はぐらかしのように思えるのだが、つまりこれこそがコードからの逸脱として機能しているように思った。

またコンタクトゴンゾの《サンダー&ストーム バイオ有限会社》も映像との物理的な格闘(の疑似イメージとの衝突?)という未体験の鑑賞を強いられてひじょうに興味深かった。

グランプリを獲った山城知佳子の《土の人》も、肉声による戦争イメージの再現を、シームレスに現代的なボイスパーカッションに変奏することによって、じつにエモーショナルなとまどいとおどろきを生じさせていた。作品を鑑賞する際の椅子であり、展示空間に点在しているオブジェでもある無数のスピーカーは、わたしの尻のしたから音をとどろかせ、歴史はつねにわたしたちの下敷きとしてあることを、瞬時に自覚させる。納得の受賞である。

E.S.Vのニューアルバム『ぬけ道』がめちゃよいのでみんなきいて!