とびだせ、殴れ、おまえの置き去り

ひとりぶんの期待、ひとりぶんの責任、ひとりぶんの自由。おれのキャパはどうしてこんなにすくないのか、もっとおおきなかまえかたを習得したい。自己のゆらぎの包括を、もっとやさしく、もっとしたたかにできるように。

ボグダン・ジヴォルスキ「ジヴォルスキの傑作ドキュメンタリー」(『アイスホッケー』、『クラシック・バイアスロン』、『人生の舞台』、『フェンシング選手』、『フランツ・クラマーとスキーの風景』の短編5本)@ポーランド映画祭(TOP Museum)、すばらしい! まだまだしらない優れた作家がいるものだと感動した、映像というメディアであることの意義を手ばなさずに映画を撮っている、あたまのなかにすでにイメージができているからこそのフレーミング、ショット、そしてそれを際立たせる卓越したサウンドエディット、どんな題材も芸術の域にまで高めてみせるというエネルギーを感じた、これまで日本で紹介されていないなんてもったいない! つぎは12日(火)19時から、場所は写美ことTOP Museum、恵比寿、このブログ読んでるすーぱーセンスのいいひとたちはみんな観にいってくれーーー

それぞれの作品にもちょっと触れる、いちばんはじめのアイスホッケーのドキュメンタリー、お化粧をした子供の選手の顔のアップからはじまる、この最初のカットからして勝利だと思った、おしろいとくちべに、晴れ舞台にのぞむ、もろさを孕んだすこし緊張したおももちのうつくしさ、ジヴォルスキの作品の特徴のひとつはサウンドを後付けしていること、不要な部分はすべてそぎおとし、必要なところだけをくわえる、その贅肉のなさが、映像というメディアを信じている作家の姿勢のあらわれとしてぎらぎらとしたかがやきをはなつ。

にほんめ、スキーをこんなにかっこよく撮った映像ははじめてみた、雪上のおばちゃんの華麗なバックステップからはじまって、なんだなんだユーモラスな作品なのかと思ったらすさまじいフレーミングのカットの連続でベリエクスペリメンタルかつベリクール! 松本俊夫が生前観ていた作家なのかどうかはわからないが、彼もきっとよろこぶであろうまごうことなき前衛ドキュメンタリだった。どうやらこの監督は写真も撮るようである。ボグダン・ジヴォルスキ、しかとおぼえた。


バルトシュ・M・コヴァルスキ『プレイグラウンド』@ポーランド映画祭、ハネケ、トリアー、ザイドル、デュモンなどなど悪意の映画作家が大好きなおれとしては新たな作家の登場にうれしく思うのだが、おそらくこの監督はおれとおなじような好みをしているはずで、なのに(がゆえに?)いま一歩踏み込みが足りないというか二番煎じでおわってしまっている気がする、ドラン同様MV通過世代を感じさせる、音楽がガンガンかかる演出は◎、手持ちカメラ主体の撮影や、時系列をバラした構成など、作家自身の「映画を撮ったるで!」という欲望、野望、野心がつたわってきて、そこはとてもよかった、やっぱりこういうパッションが作品にうきあがってきているものはよい

鏡、つまりは自己を確認すること、貧乏アパートに暮らすワルガキ、金持ちのでぶでうぶな女の子、父の介護をいやいやする少年、その三角形で序盤はすすんでゆく、悪意は純粋なものとしてではなく、理由づけられた階級闘争のあらわれとしてもみえる、実際あった事件(ジェームス・バルガー事件、何もしらずに観たほうがたのしめると思うので詳細はここでは書かない)が下敷きにあるようだが、その現実のパワーをこの映画が乗り越えていたかと問われればうーん、、というところ、とはいえ興味深く観た、似たようなテイスト、というか悪意の作家の作品でいえば、マルクス・シュラインツァー『ミヒャエル』やマイケル・フランコ父の秘密』あたりとおなじくらいには

プレイグラウンドを観て印象的だったのは坊主姿になって登校してきた同級生に対して「アウシュビッツみたいだな」というような冗談が飛ばされていたこと。ポーランドの小学生はそんな感じなんだな。


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チェルフィッチュ『三月の5日間』@KAAT、うーん……、男ふたりとつぎのシーンでおわりですよと終幕を告げる女優はよかったがそれ以外はあんまり、、とくにドアタマにででてくるひとはとうに切り捨てたはずのチェルフィッチュなのでは、、? という疑問が、、ゆえに冒頭にだし、その後は切り替えのスイッチ/ノイズとして作用させているとすればまあ納得はいくがそれは妥協の産物としての、苦肉の策ではないか、そうだとすればそもそも演者がかわいそうだ、つまるところ手放しの絶賛、みたいなところからは遠く離れた地平にあると思った、小説版の方が断然よい、ちなみにおれは初演を観ていない

▽上記のことを整理したツイート
『三月の5日間』、いわゆる「チェルフィッチュ」は過去のものとなった、20周年という節目に為された決別の宣誓、その象徴としての第一声。そこにおれは乗れないが、男たちと終幕を告げる女のよさをどう説くべきか。本作は手放しの絶賛からは遠く離れた地平にあり、むしろそれらを拒絶するためにある

で、ツイートの翌日に公開されたインタビューを読んで、自分の眼識のうえにあぐらをかいたわけなのだが、逆にいえば作家の意識をこうして明確に伝えられる上演になっているということでもある。それ自体はすばらしいことだと思うが、その内実が演者や観客にとって幸福なのかと問われればちがうだろと答えたくなる。「演劇界」と巨視的にみればいいのかもしれないが、なぜそんなものにつきあわされなくてはならないのか? 本作の照準は上演ではなくオーディションの方にあるとしか思えなかった、好評を得ているようだがその称賛の対象はこれから作家自身が踏み台にして飛び越えようとしているものであり、それらを拒むための一里塚として存在しているに過ぎないのではないか。

であるがゆえに、よかった俳優たちについてわたしはいったい何をいえるのだろうかと立ちどまってしまう。だが、たとえば、彼ら/彼女らの立ちあげることのできる質感が、『部屋に流れる時間の旅』においてどう作用するだろうかと想像してみる。その先に、岡田利規の目指すものを視ることができるのではないか、そんなことを思う。

あと衣装がよかった。とくにヘソがめちゃくちゃ効いていた、演劇を観て衣装がいいなんて思うことははじめてかもしれず(マームのカッコよさとはべつの次元、観客の意識へのはたらきかけが衣装を通してなされるということ、ミュージカル的な衣装ともまたちがう作用のしかた)、その際立ちはすごかったと思う。担当の藤谷香子はFAIFAIに所属しているようだがまだ観たことがないんだよな、、志郎康の教え子たちというところからも気になっている、まあいずれ観る機会があるだろう、