黒沢清『Chime』(2024)@シネマカリテ。理屈を物理で殺害するシーンがおもしろい。理屈はステレオタイプなジェンダー規範のなかで「男」に割り当てられていることが多いが(曰く、女は感情的であり、男は論理的である云々)、本作では「女」がその役割を身に負っている……といったロジカル(?)な視座から観るのもたのしいだろうが、単に画として魅力的なショットが多く(主な舞台となる料理教室の窓から入ってくる、電車が通過する際の光/照明!)、観ているあいだずっと画面にぐいと胸ぐらをつかまれていた。主人公家族の食卓シーンの意味のわからなさ、その一家に入った亀裂のあらわしかた(突如として発生する子供の笑い、中座した妻の起こす空き缶のノイズ)がずいぶんとこちらの心をゆさぶるものとしてあり、もはや怖さが振り切れておもしろくなってしまうおもしろさが作品の至るところにちりばめられていた。45分という短さもいい。ラストの爆音もたのしすぎる(アラバキのコンピで渡邊琢磨をしった口なので、ノイジーなその劇伴を聴いて!となった)!
夜はビールを飲みつつ、シークトラックとベースを用いてQさんとセッション(Qさんはアコギ)。シークトラックをかませばベースの音をスピーカーから鳴らすことができるのがわかり、めちゃたのしかった(遅延があるのが玉に瑕である、単にディレイエフェクトがかかっていた説もある)。
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午前の遅い時間に起きだし、Qさんとランチ。西荻の名店・キャロットへ。悩みつつ、ハンバーグと海老フライを頼む。うーん、うますぎる! チーズのようなハンバーグの酸味!と肉を噛みしめるたびに興奮していたが、単にかるく傷んでいただけという説もある(次回たしかめる必要がある!)。Qさんはただでさえ大盛りのご飯をおかわりしていて、わたしの身体からはとうに失われてしまった際限なき胃袋ぢからを感じた。
駅で別れ、わたしは近美へ。「フェミニズムと映像表現」展。コレクション展に付随する小企画なので、チケ代はたったの500円。まずはコレクション自体をじっくり観てまわる。植物モチーフの装飾がかわいい、磯矢阿伎良《はないかだ紋様長手文庫》(作品のタイトルを調べていて、「文庫」と呼ばれる箱があることをしった)、部屋の角に向かってプロジェクションされていた(がゆえにフレームがゆがんだ映像——それ自体も大半が黒味によって覆われている!——が展開される)ゴードン・マッタ=クラーク《都市の裂け目》、雨具のカッパみたいな、しかし巨大なビニールを支持体に勢いのある描線がドローイングされた、セル画っぽさも感じられる吉澤美香《無題》(「作品に「無題」ってタイトルを付ける作家大嫌い!)あたりがおもしろかった。
▼タイトルによる方向づけを嫌っているのかもしれないが、「無題」は作家の怠慢以外のなにものでもないと思っている、前にも同じことを書いた気がする
小企画ではキム・スージャ《針の女》がよかった。メキシコ、エジプト、ナイジェリア、イギリスという4都市の、人通りの多い街角に作家自身が立ち、その後ろ姿を定点でおさめた映像インスタレーション作品。画面の中心に針のようにして立つ作家と、そこに投げかけられる/ない無数の人物のまなざしが、不動/動の対比とともに観る者に迫ってくる。エクスペリメンタルなサウンドが鳴ったり、おしゃべりが軸になっていたりとノイジーな作品が多い(それらはそれらでおもしろかった、ジョーン・ジョナスとか、何年か前にワコウで観たときよりも親しみやすいように思った)なか、身ひとつで世界に穴を開けようとする、カッコいい作品として目に映った。
太田達成『石がある』(2022)。スクリーンで観て新たに発見したのは、川の音の存在。オープニングシークエンスからしっかりと水の流れている音がする!と興奮した。あたまからおしりまで、川がそばにある。石は、川の流れによって磨かれる。また、目を瞠ったのはバス停のシーン。待合室に座る主人公の女が窓枠越しにフレームにおさまっているが、その身体を一本の柱が横断している。上部には頭が、下部には身体があり、手には枝が握られていて、コツコツと地面を叩いている。やがてバスがやってくると同時に女はバス停の待合室から踏みだすが、彼女は帰るためのそれには乗らず、川に戻っていく。いちど帰ろうとした思考(あたま)が、川で遊んだ記憶をもつ身体によって破られる、そのことがカットによって雄弁に語られていた。
上映後はIさん、Iさん、Yさん、Oさんとアフガン料理屋で一杯。ウゾ(ウーゾ)があったのでよろこんで飲む。濱口竜介にまつわるおもしろエピソードが聞け、めちゃくちゃおもしろかった。どんぐりのリキュールも美味だった! 店の一角に「アナキズム」紙が置いてあるのもよかった。
帰宅後はQさんとまた一献。