アジアの唇(ひとつの移転)

ふた月連続で詩を投稿し損ねている。〆切日間際がクソいそがしいのが主な理由だが、それにしたってどん詰まりの気配を感じざるをえない。小説を書くぞとか意気込んでもいたのだが、そちらもすすんでいない。リソースはすべて仕事に割いている。いまの仕事はめっちゃおもしろい。最初の一冊にして、代表作、って感じの本がでるだろう。編集者ってこれだ! って日々を過ごしている。日をまたいで家に帰る日がつづいているけれど、やりがいの方がいまは勝っている。スパルタ。とはいってもまいにちこんな時間に帰っていると頭がイカれそうになるのはたしかだ。

上のはなしとはべつに、印刷物をつくりたいんだなおれは。卒展でつくったペーパーの文字組やコミティアに参加してた頃の制作物のたぐいをみてたらZINE熱がちりちりとバーニング、バーニング。個人で雑誌つくれる体制を来年には整えようね。

事後的な了解を共通の敷布団として

何かに対峙したときのわからなさが、のちのちにすんなりと理解できる。この積み重ねが成長ということで、ぼくの敬愛する廣瀬純が「毎日毎日すこしずつ賢くなってってるんですよ」(http://radiumcity2015.tumblr.com/post/124215846260/%E5%BB%A3%E7%80%AC%E7%B4%94%E3%81%95%E3%82%93-%E3%83%88%E3%83%BC%E3%82%AF%E3%83%AC%E3%83%9D%E3%83%BC%E3%83%88-20150523)というような感覚をもちつづけることで、ひとはだいぶおもしろい姿勢で日々の生活を過ごすことができるんじゃないかと思う。そういう点でいえば、人間はずっと成長しつづけるいきものだというエリクソンの発達段階的な考えはひとつの指針として役に立つ(彼は老年期にその発達が止まるというが、死ぬまで前進しつづける気概があった方がいいんじゃないかと考える、70代とかになってもいきいきしてるひとっていいなー、すげーな、こうありたいなって、しおしおした老後とかつまんねーだろーなーって、20代半ばのぼくは思ってるんです)。

復刊したスタジオボイスのユース感ってめっちゃいいなって最新号でるたびうなっている。毎号誤字脱字があるのもなんかいいなって(ほんとか? 笑)。就活時にエントリーシートだせばよかったなっても思うんだけれど、場がちがえどもマインドは同じだぜみたいな、そんなきもちで日々サバイブしてます、90年代生まれとして。

あわだつ脳の飛行形態(分有からの離脱)

隣に座った男の所作がいちいち雑であるということだけでおれの殺意はふくれあがっていく、おそらく知的障害者、そんなレッテルに左右されるな、怒りの理由付けをまちがえるな、電車を乗り換える際にその姿を見つめたがおそらく健常者、そんなレッテルに左右されるな、スペース、それぞれのスペース、わたしの思考は狭くなる、なにもこたえない、なにもうごかない。

おまえの背中にかいてある「HASEBE」の文字が「WASABI」にみえる。今日はワールドカップ予選の日だ。対面に座ったユニフォーム姿のカップルにしたしげに喋りかけるおっさんだけが救いだった。踏切のまえで祈る男の背中にはなにも書かれていなかった。

整頓されないものだけがコミュニケートできる

引越しのじゅんびをしている。ものを捨てられないにんげんなのでとてもたいへんだ。積み本をぱらぱらめくっているといつのまにか深夜になっており、小腹がすくので笹かまなどを食べている。この積み本というのはほんとうにやっかいで、どの塔(積み重なったブックタワーを指す)をくずしても読みたい本しかないのである。きのうはイットガール特集のギンザと、ミヒャエル・ハネケの映画術を読んでいた。ハネケやっぱりだいすきだ。いちばんすきな映画監督はだれかときかれたら、いまのおれはミヒャエル・ハネケとこたえるだろう。タイトルからしてヤバい次回作『ハッピーエンド』の公開が待ち遠しすぎる。観ていない過去作を公開までには観ようと思っている。『カフカの「城」』と『タイム・オブ・ザ・ウルフ』である。もちろん観たことのない作品というのはあくまで劇場公開用長篇作品のなかでというごく限られた範囲内の話であり、初期のテレビ用につくられたものなんかもどうにかして観る機会が得られればいいなとおもっている。

脳がいたい。腹がへった。家がとおい。さいきんはほしい本が続々と刊行されているのだけれど、引越しまえにこれ以上ものを増やしたくない。とくに斉藤斎藤『人の道、死ぬと町』をはやく読みたい。

百日単位のフェアトレード

『オーバー・フェンス』を観た。山下敦弘の作品は『マイ・バック・ページ』ぶり(音がちいさすぎて何いってるかわからんまま観ていたので内容はぜんぜんおぼえていない、もやのかかったようなオフィスの空気感だけをおぼえている)? 90~00年代邦画的湿度感を踏襲しながら、その先をひらこうとしていく感じがいまっぽくてよかった(扉はあいている、窓もあいている)。地方都市のかかえる閉塞と、そこに対応する、徹底的なひとへのフォーカスをつらぬきとおす画づくり。外を、廻りを、映さない。だのに、古くささ、ダサさがほとんどない。自転車ふたり乗りのシーンや、船上での会話シーンなどの、ちかしさにも、遠さにもなる「狭さ」がよかった。

前者を観ていて想起したのはヨアキム・トリアーオスロ、8月31日』の消火器の煙を放出しながら自転車ふたり乗りをするシーンで、それと同じようにうしろから撮ったら飛び散っていく羽毛がきれいだろうなとかそんなこと思ってたんだけど、そういう逸脱をゆるさない緻密さに観おわってからしびれた。どちらもトレイラーに使われていたので見比べてみてください。下に張っておきます。ちなみにヨアキムの新作が『母の残像』というタイトルで11月に公開されるのでそれも張ります。原題は『Louder Than Bombs』。スミス?(ちゃんと聴いたことはない



[『オーバー・フェンス』トレイラー]


[『オスロ、8月31日』トレイラー]


[『母の残像』トレイラー]

あ、映画といえばこないだ牧野貴の作品を映画館で観ました。いわゆる実験映像ですが、スクリーンに映る映像と、自分の記憶との照らし合わせ、音の有無と眠気みたいなことを考えながら観て/寝ていましたが、それを踏まえてのトークがおもしろかった。まだまだ話を聞いていたかった。観客がほとんど映像業界のひとって感じでもったいなかった(ロビーに座っていたら、鈴木志郎康という単語が聞こえたのはおもしろかった)。詩もそうだけど、もっとひらけていければなと思う。

目の前の前から前側に背ける

3連休が壊滅したのだが、ふしぎとストレスがない(疲労はある)。しごとの内容におれは左右されている。自身に責任を置くことができ、これからにつながる予感があるワーク。どこを走っているのかわからないまま走らされる苦痛がない。考えかたが日々ぶつかり、積み重なった時間と衝突してばかりいるが、飛ぶ火花はいつかの火種になるはずだ。

こんなことばかり書いているのはよくないと思っている。

連休最終日はしごとがえりに角川シネマ新宿で『コロニア』、新宿Motionで余命百年、トリプルファイヤー、SuiseiNoboAzのスリーマンを観た。エマ・ワトソンがかわいかった。話は『サウルの息子』×『マーサ・マーシー・メイ・マーリーン』みたいな(ずいぶん暴力的なまとめかただ)。脱出ものはどうしてこんなにドキドキするのだろうね。わりとたのしんで観ていましたがなぞのズームアップと寄りのショットによるハリウッド感(メジャー感?)は好みでなかったね。それにしても反体制マインドには心おどるし心ゆさぶられる。パトリシオ・グスマンの作品をいくつか観ていたために時代背景はなんとなくわかる。『チリの闘い』もはやく観にいきたい。ゲバラしかり南米は魅力的だ(おれが小学生の頃いちばん好きだった国はエクアドルで、好みの国を調べて発表する授業のときに先生がどうしてこの国を選んだのと質問してきたことを思いだす/「エクアドル」は赤道を意味する)。

ライヴもぐっどなイベントだった。3バンドとも観るのは2~3年ぶりくらいで、観客を殺す勢いで殺伐としていた余命が南国育ちの野生児によるサイケなドリームポップみたいな感じに変化していたり、メンバー変わってどんな風になったのかちょっと心配だったボアズも相変わらずの音圧と金属的なカッコよさを発揮していてめちゃ満足だった。トリプルファイヤーも演奏、MCともにキレキレで、なんども歓声をあげてしまった。

木曜日は政治的な話をきいて、キムチうどんを食べたりした。もしかするとおれは話すことが足りてないかもしれない。ゆえに文字を書くのだね。

いま健康になって海辺に打ち捨てられる

搾取と経験のバランスが社会人として生きるうえでの指標だろうか。社会人というよりも組織人としてかな。ヤフーニュースの労働関係(に限らずだけれど)のコメント欄みてるとかなしくなってくる。みんなどれだけ奴隷根性なんだ。いま乗ってるこのシーソーのかたむきを感じながら飛び立つことばかり想像している。上で使った「社会人」とか「組織人」とかいう言葉、むかつくな。なりたくねーよそんなもん。

さいきんアゴタ・クリストフの初期三部作を読み終えた。『悪童日記』『ふたりの証拠』『第三の嘘』。いやーほんともうよかったね。誰にでもすすめたくなる。とりあえず最初の『悪童日記』だけでよいからさ! 読んでくれ! 第二次世界大戦期のヨーロッパをしたたかに、たくましく生きる悪童! そっけない文体に支えられたかなしみのドラマが、ゴツゴツした感じで躊躇なくぶつかってくるんだけれど、重さがないからすいすい読める。ひとの死の薄さが、靄のように本のなかを流れていて、その堆積がじわじわと効いてくる。あっさりした性描写なのにえっちい感じがするのもよい。ここで引用とかすればいいんだけれどいま手元にないのであきらめる。

シン・ゴジラ』めちゃおもしろかった。『昔々日本』まあまあよかった。もう眠くてあたまがまわらない。