書き留められた悪意の所在について

わからないことが多い。わかるひとたちはたいへんだと思う。わからないわたしに対峙する点において。納得できるところに着地するためにわたしは言葉を費やすが、埃のかぶった時間の層をうらがえすのにもたいへんな労力がいる。とはいえ、わからないままにしておくことに耐えられるほどわたしの骨はやわらかくないのだった。社会とのあいだに起きる軋轢が、あたらしいひとたちの、あたらしいコードとなって点灯していくことを想像する。けっして健康ではない書き換えのしかたで、ぼくらは生きのびることを選択するだろう。

さいきん好きなものを観返して自分を取り戻すことをしている。『ドッグヴィル』や『籠の中の乙女』など。どちらも犬だった(籠の中の乙女は原題が『Kynodontas』= dogtooth = 犬歯だ)。犬が飼いたいな。犬を飼いたいな。犬、犬、銀牙シリーズがすきだよ。赤目とかカマキリとかいろいろすきだよ。飼うとしたらシェルティがいい。シェットランドシープドッグである。

先日実家へ帰った。わたしがここでも取り戻される。帰った当日にアイスを買ったのだが、いまになってそれを食べずに冷凍庫にしまったままなことに気づいた。ハーゲンダッツ……。

倫理的に生きる、誠実に生きることのむつかしさについて考えること。傷つかない/つけあわないための器用さよりも、傷にふれる/ふれあうための繊細さを大事にしたい。

自分を確かに通りすぎたきもちを覚えていない

勝手にあなたのためを思われる。あなたのためを思って、は欺瞞である。自分がいちばん自分のことを思っている。でも、あなたのためを思うのは勝手である。わたしはわたしのことを思っている。自分に自分を背負わせる。わたしはわたしを思いながら、あなたはわたしを思うかもしれない。その思いはわたしを通って、けっきょくあなたにたどりつく。その回路よりも、わたしはわたしを通してあなたにたどりつきたい。そのちがい。

利己主義が好きだ。究極的な利己主義はぜったい利他になると思っている。でもこれって新自由主義的? 主義主義うるせー、にんげんは主義なんかにとどまれるほどつよくねー、でも主義はつよい支えになるだろ。佐々木ユキ主義みたいなのがちょうどいいんだ。みんなも観よう、福間健二『あるいは佐々木ユキ』。新作がこの秋公開されるのでそれも観よう。

ちかぢかおれは引っ越すだろう。神奈川県から東京都へ引っ越すだろう。そしたらホームパーティをやる。おれはおいしい料理をつくり、みんなでそれをたべる。みんなは酒をもちより、へべれけになる。新品の安いレコードプレイヤーからはいい感じのインディーミュージックがながれる。ひとりがおもむろにたちあがり、おどりだす。みんなはわらいながらからだをゆらしはじめる。きょうはじめて会ったひとどうしが、つつましいおしゃべりをしている。煙草を吸うために部屋をでたおとこは、誰よりもはやく初雪に気づく。いま駅ついたー、とスマートフォンの画面がひかる。わたしたちはしろい息をはずませながら、とてもささやかな行進をはじめる。

ゲームしない、ゲインする

カルカソンヌの一夜』を読んだ。哲学者シモーヌ・ヴェイユと、詩人ジョー・ブスケが邂逅した夜のこと、それからその後に交わされた5通の書簡についての考察。ブスケの唯一の邦訳書『傷と出来事』は一昨年に読んでおおきな感銘を受けた本なので本作も読んだのだけれど、論文的であまりおもしろくなかったかなあ。ヴェイユのことをもっとしっていたのならたのしめるのかな(ヴェイユに対する興味は芽生えた)。ベッドに寝たきりのまま、女をとっかえひっかえ部屋によく呼び寄せていたブスケはちょうどいま(と書いてから数ヵ月経ってしまった……)話題の「乙武さん」的な感じだなと思った(思/詩想的にはまったくちがうけれど)。

論文といえばこれもめちゃ前に読みおえた本だけれど、ナタリー・サルトゥ=ラジュの『借りの哲学』はそつなくまとまった卒論みたいな感じで読みやすかった。何度も同じ意味の文章を繰り返す感じとか、強引な飛躍とかもあってたのしい。さいきん宗教の本を読むことがふえていて、この本でもキリスト教のイエスに対する負債の論理などがおもしろかった。ヴェニスの商人とかこれ読んではじめて話の筋をしったよ。

いまは井筒俊彦を読んでいる。『イスラーム文化』→『意識と本質』という流れ。おもしろい。仏教、ヒンドゥーイスラームのものの見かたに刺激を受ける。読みおえたらまた何か書くだろう。エッセイ集たかいけどほしいな。この流れでちかぢかモスクにいこうと思っている。カンドゥーラ(アラブ人が着ているまっしろいローブみたいなやつ)がほしい。イエジー・スコリモフスキ『エッセンシャル・キリング』のヴィンセント・ギャロかっこよかったなーとカンドゥーラのことを考えるたびに思う。『イレブン・ミニッツ』も観にいく。こう人文系の本を読んでいると大学時代もっと勉強しておけばよかった、という考えがあたまをよぎることがあるけれども、それは幻想でしかないと思うし、じっさい勉強していたとしてもべつにいまが「よく」はなってないだろう。時間の流れ、を気にしているのか? 天皇制は時間を支配しているって、いわれてみればそうだよなって思った。死んだら年号かわるのだものね。網野善彦とかをひろい読みしながら、だらだら考えている(何を?

しおれた蛇たちの囲む若い半島で

ホステスクラブオールナイターにいった。人生初のサマソニだ。これがうわさの都市型フェスってやつか! ダイナソーを途中で抜けてのぞきにいったジョン・グラントがとにかくアメイジングだった。Tシャツ買いそびれてかなしい。CDはきょう買った。いま聴いている。GMF、めちゃいい。

ホステスはムームがでた回以来にどめだ。アニコレさいしょからいかずにサヴェージズ最後まで観とけばよかったなってのも心残り。けっしてアニコレがわるかったわけではなく、なんかキレキレでかっちょよかったんだよサヴェージズ、2曲くらいしか観れてないけれども。『エクス・マキナ』でもエンディングやっていたね。アニコレのSEがアノーニで、リアーナしか浮かんでこなくて「これリアーナですよ」っていっしょに来ていたひとらに連呼していて恥ずかしかった。

さいきんはビリヤニ食いたい欲がやばい。しばらくまえにたべた中目黒のセイロンインのビリヤニと煮干しのサラダおいしかったなあ。アラクというお酒をラッシーで割ったものもとても飲みやすくて何杯でもいけそうな感じだった。スパイスはサイコーだ。おれはカルダモンとコリアンダーがすきだ。クローブはちょっと苦手な香りがする。玉川学園前のデリーマハルでたべたタマリンドのきいたバターチキンカレーもまたたべたい。下北沢のヤングも、新百合ヶ丘チェリーブロッサムも。ああ、カレー。アイラブカレー。カレーを食いたい。いまは福島の梨を食べているうまい。いつか牛タンをまるごと一本そのまま食うのが夢なんだ。

そこにふくまれない氷を置いておく

だいぶ鬱ぎみな気がする。気落ちがはげしい。きょう(8/5)は『シリア・モナムール』を観た。いまのシリアを撮った作品だ。重たい。とても重たい。映画を撮る。映画をつくる。映画を撮ろう。それが希望になる。ものをつくる。はげます。はげまされる。父の言葉を話す息子の想像力につよく胸を打たれた。帰りの電車では、映画を故郷と呼ぶメカスのことを思ったりした。

ドキュメンタリーといえば6月に観た森達也の『FAKE』もすばらしくよかった。すっかり感動させられてしまう自分がいて、わたしはいまメディアに翻弄されているという自覚をうながしてくれる。言葉を話させる、インタビューとカメラの機能のおもしろさ。愛の物語、偽りなし。ドキュメンタリストとジャーナリストはちがう生きものである。

映画、映画の話。先月は1本も観ていない。映画館に通うようになったのは2012年からなのだが、月間映画鑑賞本数0ははじめてのことである。あとから気づいてショックを受けた。今月は『シリア~』のほかにも『ヒップスター』を観たり、大学卒業以来の撮影の現場にいったりしている。前者は同じ監督では『ショート・ターム』の方が好きだけれど、家族や友人といったちいさな世界のことをていねいに綴る姿勢や、感情をゆさぶるシーンの描きかたにはにまにましたり、涙を流したりした。後者はデジタルでなく16ミリフィルムの撮影で、わくわくした。コダックから今秋スーパー8がリボーンされるが、発売したら買って映像を撮るよ。

こないだ代官山ユニットで観たミヒャエル・ローターのマラソン感あるミニマルさをたまに思いだすお盆を過ごしています。

ピークアウト幻想時代

真夏です。ポケモンgoをしています。わりとたのしい。であるくことがふえる。次のサンムーン買いたくなる。首ながナッシーはやばいと思った。

先週末の日曜日には、はじめて二子玉川に降り立った。トーキョーアートフローというイベントにゆくためだ。第0回ってことでアート感はあんまりなかったけれども(周りかたをまちがえた?)、夕暮れていく河川敷のロケーションはすごくよかったのでこんごもちゃんとつづけていってほしいです。川はいいよな。無料で開放されている日本庭園があったのも○。おれは将来森にすむよ。

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写真には写っていないが馬もいた

かえりはバスに乗った。おれはあまりバスに乗らない。なぜなら路線にくわしくないから。でもバスに乗るのはたのしい。ふだんとはちがう町がみえる。せっかくスマホをもってるんだからバスにくわしくなれそうなアプリを探せばよい。バリ料理を食べて家に帰った。「ゴレン」というのは、インドネシア語で炒めるとか揚げるとか、そういう意味であることをしった。

今月の現代詩手帖がおもしろい。特集「2010年代の詩人たち」。まだぜんぶ読めていないけれども。年代でくくる暴力はさておいて、こういう「○○年代の~」とかに弱い。あと佐々木敦の『パロール・ポエティーク』の刊行がきまってうれしい。現代詩に触れはじめたころ、図書館にこもって何回分かを読んでいた。ちなみにぼくが10年代の詩集を1冊選ぶのなら、金子鉄夫『ちちこわし』(2012年、思潮社)です。

たたかいタクティクス

胃がいたい。おれは胃が弱い。ストレスは胃にでる。大学受験に失敗したとき、胃潰瘍になってタール便(くろいうんこである。血がでてからしばらく時間が経っている=出血場所が尻穴からとおい証拠で、真っ赤な血便の場合は肛門のちかくで出血していることを意味する、というあした役に立つクソ知識)がでたのにはたいそうショックを受けて、対面に座っていた女医にそのことをいいだせなかった思いでがある。いまのこれはべつにストレス由来の腹痛ではない気がする。のだが、めちゃいたい。

というようなことを金曜の夜に書いていた。
いまは日曜、午前である。
昨日、一昨日と演劇を観た。新聞家『軟禁の正常さ』と、アイスカハラ(でいいのか?)『こわがることを覚えるために旅に出た若者/泥』である。前者は、毎週金曜21時頃から中目黒のユーティリティキャンバスという帆布生地をつかった衣類を取り扱っているお店でおこなわれている演劇で、演劇そのものよりも、終演後に必ずおこなわれている「アフタートーク」を、より「話す場」に近づけたかたちにしている点が魅力的だ、といってしまうのはちょっと暴力的だけれどその豊かさがいいんだ。

そもそも演劇とは軟禁的状態をつくりだすものではなかったか?

新聞家でのトークでの議題と、アイスカハラでのステートメントの齟齬がよかった。

おもしろい身体をつくるってのはオフィスマウンテン『ドッグマンノーライフ』観たときに感動したのだがむつかしいよな。

ここから7/1、現在形。
わたしがこの場に加担しているという意識があるかぎり、軟禁状態はうまれない。しかし、そこから疎外されている、強制されていると思ったときに軟禁は立ち上がりはじめる。すなわち態度の選択が「軟禁」なのであって、客観的軟禁などは存在しない。
ただ、わたしはこの場に加担しているという自覚がなく、疎外も強制もされ(ていると思わ)ず、ただ「いる/ある」という状況においての存在とは暴力ではないか(わたしがいまここで書きつけているのも暴論だけれど)。
今日のトークは、豊かさが押しつぶされていく瞬間がなんどもあって――それは胃がいたいと嘆いていた日にもあったけれど――、とても「軟禁的」だった(いまぼくがここで話している「軟禁」は、タイトルの『軟禁の正常さ』における「軟禁」とは異なるものを指していると思う、こういうズレをなんとか擦りあわせようとする、ズレたままでものごとがすすんでいくことを回避しようとする態度をぼくは支持したい)。さいごに発言をした、身体パフォーマンスをやっているひとの空気の変えかたあるいはその変化がほんとうに救いで、それがなければおれはいまよりももっと気落ちしていだろう。ああでもだからといってこういうじめじめした解決のしかたはよくないよな。言葉で生きてるにんげんって、だから健康的じゃないのかっていまわかったよ。

浮動することの楽さに身を寄せずに、極端へと傾いていきたいのがいま脳みそに浮かんでいること。岡田利規『三月の5日間』でNOと叫んだ男はべつに過激主義者ではない。