軽量級の暗幕

小説、アップしたあとに気づいたのだが「~だけ縛り」なわけではない、いま書いているものにはついていない、おれの無意識がだだもれている、書いたものは人生のバロメータになる、そもそもこのブログ自体もそんな役割を果たすこともある。

先週末は台北暮色、白夜、幻を見るひとを観た。作品として突出したものはなかったが、台北~のおわり際のパン、白夜の寝ても覚めても愛別離苦(または成就)シーンは部分として胸をゆさぶられた。ブレッソンの低体温な感じは、ひさびさに観たけれども季節的にも気分的にもいまのわたしにとてもフィットした。ゴーゾーはもちろん魅力的なひとだけれど、映画は言葉のうるさいだめだめドキュメンタリーだった。テレビでやった方がいいというツイートを見かけたがまったくその通りだと思った。神性のプロパガンダに堕している。あばくにしろ、つきつめるにしろ、その先を観たいんだよ。カルトの教祖として仮定しアプローチするのがきっとおもしろいと観ながら思っていた、ありがとうございました……ありがとうございました……、台北もけっこうだめだめな映画だったのだが、おわりかたのすばらしさ、その一点で突破できるものがあるように思えた。たらたらとしたテンポ、何も起きないことの映画、核心の不在-周縁のダイアローグ、たまに挿入される画面上部の赤いフラッシュは鑑賞中機材トラブルもあたまをよぎるくらいの謎効果だったのだがじっさいはどうだったのだろう、演出だとしたらちょっとよくわからない、あともしエンディング曲が日本独自の企画なら(きっとそうなのだろうが)担当者は腹切ってわびてほしいほどの余韻ぶちこわしだった。

今年も鑑賞本数80本おーばーできた、なおかつすべて劇場! おそるべし。ひさびさにベスト/ワースト挙げようかなというきもち。月末、つまりは年末あたりに。


f:id:seimeikatsudou:20181110161913j:plain


あと写美の「小さいながらもたしかなこと」、写真×映像のインスタレーションが多くてとてもよかった。編集的連接がおれは大好きなんだ、だから映画も本も料理も服も好きなんだよと展示をふりかえりながら思うのでした、来年は昼のワークで雑誌を創刊するのですが個人でもつくりたい。訓練の年になるという予感がある。

葉のかげの、かげではないところだけ

〈葉のかげの、かげではないところだけをあつめたらどのくらい明るくなる?〉

 書かれていた、鉛筆はうすく、ゆびでひとなでしてしまえば消えてしまうような濃さの文字をわたしは見た、机の表面に、わたしの机のうえにそれを見つけた。
「なあ皆原もそう思うよな」
 身を乗りだして都築君が喋りかけてきて、そのゆびが文字に触れるのを、見た、鉛の粉がはだのうえにこなっぽい跡をのこすのを、見逃さなかった、見つめていた。
「え? きいてる?」
「あ、ごめん、」
 わたしは上の空、ではなく指の先、いやちがう、うまい喩えを考えだそうとするのだがあたまには何も浮かんでこず、いいよどんだくちのかたちをかすかに反復することしかできない。
 彼がもういちど「え?」と首をかしげるのをみて、からだの奥底から恥ずかしさがこみあげ、わたしはうつむき、両手をまえに突きだして、めったやたらにぶんぶんとさせる。
「ほら、みんな席に着けー。小テストはじめるぞー」
 ガンジーがプリントをかかえてもどってきた。ジャスト45度、こちら側にかたむいていた都築君の椅子はいちど直立状態にもどり、まえからきたプリントをわたしに手渡すためにまたかたむく。のびてきた手が紙の端に鉛のあとをうすくつけ、その部分がわたしたちだけの秘密のように鈍色にかがやく。
「じゃあ、始め」
 それぞれの名前が、それぞれの筆順、それぞれの筆記音、それぞれの筆記用具によって一斉に紙上に書かれていく。わたしもプリント上部に枠どられた空欄に、「皆原このみ」と人生で何百回目かの書き慣れた自分の名前を書きつける、このHBのシャープペンシルよりもうすい鉛筆で机の文字は書かれていたことに気づき、わたしはプリントをめくってそれをたしかめる。〈葉のか〉と〈たらどのくらい明るくなる?〉以外はさっきの都築君の所作によって消えてしまっていて、わたしはもう消滅してしまった〈かげ〉と〈かげではないところ〉について考えはじめる。
 葉のかげの、かげではないところって、いったいどの部分を指すのだろう。わたしは好き勝手に想像の触手をのばしていく。〈かげ〉なんだから〈かげではないところ〉をそのなかに見つけることなんてできないのでは、とか、たとえ見つかったとしてもそれはもう最初から〈かげ〉ではないよね、とか、〈明るくなる〉も何もどうやったらその部分を〈あつめる〉ことが可能なの、とか。
 わたしはプリントに映った自らのかげを見つけた。ゆびを交差させる。ゆびとゆびのすきまには、かげができない。木漏れ日における、ひかりと、かげの関係を思う。かげなくしては木漏れ日は木漏れ日ではない気がする。木漏れ日を木漏れ日として成り立たせるのは、かげがあってこそだという気がする。
 なんだかカンニングをしているような気分になり、あわててプリントをもとの位置にもどす。わるいことをしてしまった感覚がわたしのからだのうちがわにへばりついて、胸がすこしだけうずうずする。時計をみる。テストがはじまってまだ5分も経っていない。するどくとがった黒鉛が紙を摩擦する音だけが教室にひびいている。わたしもペンをにぎりなおし、問題文に目を走らせる。

〈葉のかげの、かげではないところだけをあつめたらどのくらい明るくなる?〉

「え」
 声がでてしまう。教卓に座りこんでいたガンジーがまぶたをひらき、誰の声かと目を光らせる。となりの結城君は解答をプリントに書きこみながら、横目でわたしを気にしている。錯覚かと思い、目をきょうれつにぱちくりさせてから、もういちど問1と対峙する。

〈葉のかげの、かげではないところだけをあつめたらどのくらい明るくなる?〉

「ええ?」
 こんどは思わずではなく、意識的に声をあげる。なんで机と同じ文が? どうなっているのだ?
「どうした皆原」
 ガンジーが発声源をようやく見つけて席を立つ。結城君がペンを走らせる手を止め、こちらをまっすぐに見る。都築君が椅子を引き、ゆっくりとわたしの方をふりかえろうとする。
 風。
 窓際のカーテンが、一気にめくれあがる。
 それぞれの机からプリントがときはなたれ、きゃあきゃあさわぐみんなの頭上をくるくると舞う。
 そのとき窓の外が、ピカッとひかったのだった。教室のなかが一瞬、もうれつなコントラストの世界に変貌する。乱反射するガンジーの眼鏡。乱反射するガンジーの額。乱反射するガンジーの歯列。炸裂するひかりが私たちのあいだを疾走すると同時に、瞬間的にピタリと静止する。黒と白の、モノクロームの世界。宙に浮いたプリントはその両極端を自らの表裏に焼きつける。まさに、これこそが、かげではないところとかげの集積としての光景だった。わたしはこのとき、世界の真理をはじめて理解した。わたしたちはかげとひかりのあつまりにすぎない。光あれ、と神がいったきもちがよくわかる。わたしは神さまなんて信じていないけれど。
 都築君が飛んでいったプリントを俊敏な動作でキャッチして、なんか、すごかったねとくだけた身ぶりでわたしにやさしく語りかける。うん、すごかった! わたしは咄嗟に、不用意に、純粋なきもちを以て返事をする。岩島先生ぼくのプリントどっかいっちゃったみたいなんですけど。結城君がいつもどおりのとんでもない早口でガンジーに話しかける。が、声のちいささも相まってガンジーはききとることができず、さわぐ生徒たちをなだめることで手一杯になっている。クラスはもはや小テストどころではなかった。みんながみんな、さきほどの出来事に興奮を抑えられない様子で、たかぶった感情をまわりとわかちあってはきもちをさらにエスカレートさせていった。
 ピカッ。わたしは窓の外にもういちどひかりのばくはつを見た。教室のなかの熱狂がそのままはれつしたかのような、あざやかなフラッシュだった。そうしてわたしたちは卒業アルバムの一頁をはなばなしく飾る、とてもうつくしい写真になったのだった。

不足するバーベル/しかし担ぐ気力はない

ひとつの指針がある。ヘルツォークが『アギーレ/神の怒り』を29-30歳ごろにつくったという事実、おれもその頃までに何かを為さなくてはならないと新文芸坐のオールナイト明け、きたねえ池袋の街をあんぽこと歩きながら思った、ってのはたぶんネツゾーで、観おわってから何日か経ってからそのことについてあんぽこと話したのかなあ? かえりのエレベータでたまたまあんぽこのしりあいと乗りあわせたあの感じもよかったなあ、もう6年もまえのこと、、とにかく絶望とはつねに時間とくんずほぐれつのかたちでやってくる。もうあと3ヶ月もすれば27になるわけでひりひりした焦りみたいなものを感じるようになってきた、バックホーンは22のときに『人間プログラム』を世に送りだし、グザヴィエ・ドランは『わたしはロランス』を23で撮っている、はあ信じられん負けてられん殺す! ってなるわけですわ、いやその想いはつねづねあったのだけれどより差し迫ったものとして直面している、たたかいかたを考えなおさなくてはならない、、2019年の目標。

詩集は金がなくてほんとにどうしようもない、詩自体も投稿をやめてからぜんぜん書けないでいる、書いてはいるが作品にならない、メモ書きみたいなかたちで頓挫する、かろうじて書きおえた、と思えたものを読みかえしてみてもたんぶらーにあげる気が湧いてこないようなものばかり(まあたんぶらーにあげたからといっていい作品ではないのだが……)、ゆえに小説に逃亡したわけだがそれがちょっとたのしくなってきている自分がいる、賞金も得て一石二鳥的なうまいぐあいに話をすすめていきたい、このブログでも掌編を週1ペースであげてリハビリ、レッスン、ぷらくてぃす、先日のものはそれの一環として、つぎのもいま書いている、明日か明後日しあさってには投げる、このブログにアップしていくスタイルはさいきんしった乗代雄介のブログのスタンスに多大に影響を受けたものである(本では読んだことないからつぎの給料が入ったら町屋良平なんかといっしょに買いたい、同時代の作家でいえば内村薫風なんかも文庫になるの待ってるんだけれど一向にならない)、、せめてこないだ投稿したやつの結果がでるまでは継続したい、たまったらたまったで文フリにでもだせばいいもんな、

そう文フリ、というかZINE、ミニコミ、同人誌、呼び方はなんでもよいが先日のジンギャザに参加して個人出版のたのしみをひさびさに味わったので、来年は夕立コンパイルでバリバリ活動していきたいのよな、ここで書きちらした小説をもとに漫画を描こうと思っている。それでひさびさにコミティアにでようと友人と計画をねっているところ、とりあえず8pのネームを1本切った、どういう形式でパブリッシュするかはまだ決まっていないけれどもあと1,2作は描きたいところ。手をうごかせばなんとかなるってペーパーにも書いたけどほんとそうなんだよ、なんとかしよう、なんとかしようなおれ。


f:id:seimeikatsudou:20181124171248j:plain


さいきんは寝るまえにジンギャザでげっとしたものをちびちびと読んでいるんだけれどめっちゃいいんだ、これが。個人の情念、情熱、情動をだれにも頼まれていないのにわざわざ紙に印刷して頒布する、そのことのパワーがばりばりつたわってきて毎夜サイコーのきもちになる。冊子やペラ1をもりもりげっとしたのでしばらくはたのしいきもちになって就寝できる。

寝るといえば今朝はひさびさに叫んで起きた。マック・デマルコがビル・ヴィオラの養子だっていう事実(いやじっさいは事実じゃないんだけれど)に驚愕してえーーー! と目覚めたのだった。意味わからなさすぎてウケた、ちなみにトップスのMVではマック・デマルコのキンタマが見れる。

ブルー粘土煮るだけ

 きみの涙は減塩だというウワサをきいてからどうにかしてそれをたしかめてみたいと思い、ぼくは料理学校へと通いはじめたのだが、肝心の先生には両腕がなく、「ここでは主に加熱について学んでもらう」と足の指で器用にコンロを着火させたので思わず「ブラボー」と拍手したところ「手のないわたしへの嫌味か」と左足の長くのびた小指の爪でほおをひっかかれ、破傷風になってしまった。
「それは災難だな」
「ああ」
「ところでそこでおまえは何を学んだんだ?」
「はじめちょろちょろなかぱっぱ」
 腹話術でひとり会話を試みてみるがなぐさめにはまったくならず、くちを動かすたびにほおからは膿がだだもれ、あまりの痛さに涙もたれるのだが塩分過多、傷ぐちに塩、青菜に塩、敵に塩を送るレヴェルの激痛激痛激苦痛笑、逆立ちをしてその進路を変えざるを得ない、そもそも料理をする場に破傷風菌がいるのはとてもまずいのではと思い立ち学園に疑義をしたため投書してみたのだが一向に返事はなく、一切の反応もなく、ホームページにはたのしげにわらうクラスメイトの集合写真が掲載されている。もちろんぼくもそこにうつっており、のんきにくち笛を吹いているような雰囲気でもちろんぼくもそこに写っており、まちがいなくぼくもそこに移っており。オリオリオー(オリオリオー、こだまがどこからかきこえてくるような幻聴にまで悩まされ、そうか、逆立ちをつづけているから三半規管がイカれてしまったのかとわたしは壁を蹴り、うつぶせの状態で床に叩きつけられた。ビターン。これが肉をやわらかくするコツだと先生はくちうるさくいっていた。むろん、ぼくのはまだ先生の華麗さには及ばない。先生はもともと精肉工場ではたらいていて、あまりにも仕事に打ち込んでいたことがわざわいして肘から先をミンチにしてしまったのだった。
 プルプルプルと電話がなった。ぼくの痙攣に同期するようにバイブしたのですこし反応が遅れたが、もちまえの前のめりな性格が功を奏して3コール目のなかばで「はい!」と絶叫できた。この電話は集音機能がわやになってしまっているので全力で叫ばないと相手に声が届かないのだ。
「もしもし!!」
「もしもし!!!」
「もしもし??」
「もしもし???」
 ぼくの声が反響する。返事はない。もしかしてつぐみちゃん? つぐみちゃんの涙が減塩なのって本当なの? ねえ、きいてる? つぐみちゃん?
 ブツンと電話は切れてしまった。まっぷたつである。しかたがないのでぶつ切りにし、湯を沸かした鍋に一気にほおりこみ、煮物にした。ちょっぴり涙の味がした。

通電するのは明るいね?

告知をふたつ。直前になってしまった。

f:id:seimeikatsudou:20181120191009j:plain

Tokyo Zinester Gathering 2018に参加します。
11/24(sat) 1530-1730目安。桜台poolにて。
フリペの配布とZINEの展示をするよ。
イベントの詳細はこちら。


f:id:seimeikatsudou:20181120191154j:plain


CREATION Project 2018「大堀相馬焼167のちいさな豆皿」に参加します。
震災と戊辰戦争150年に思いを馳せつつ、大堀相馬焼の豆皿をデザインしています。
ぜひお手にとってごらんください。

会期:2018年11月27日(火)~ 12月22日(土)※日曜休館・入場無料
時間:11:00-19:00
場所:クリエイションギャラリーG8/ガーディアン・ガーデン(ともに銀座)
イベントの詳細はこちら。

またもうひとつちかぢか告知があります。もりもりやっていきたい。2018年最後のラッシュ。

複数の埋葬(粗暴、そぼー?

南の島かなんかでランクヘッドのライヴを最前でみてメンバーが去り際に手拍子を煽るもアンコールの場面でおれ以外だれも拍手をせずうしろをふりかえるとだいたいが外国人で、けっきょくそのまま終演してかなしいですねととなりの日本語話者といいあう夢をみた、バックホーンのオールインディーズバックホーンまだ買えていない、ほしい。

酔っぱらっておどりこわした度のよわい眼鏡がなんど試しても接着剤でくっつかなくなってしまったのでしばらくのあいだつよい眼鏡でデスクワークするはめになり目がいたい目がいたいと泣き言をいいながらしごとをしていたのだがいつしかそれにも慣れてしまって日々視力がkillされているきもちに苛まれおれは死す、おニューのめがねはいい感じだ、それをかけたまま街を歩くとひとの顔がぼやぼやしているので視線をいっさい意識しないで済む、0.2以下程度への矯正視力、吉野寿もびっくりの度数、


f:id:seimeikatsudou:20181020134409j:plain


こないだぬまたくんと服を見にいったときノンネイティブという単語がでたのでなつかしいなとこぼしたら「え、そんななつかしいブランドなの」と返され、かつて「ノンネイティブでしょうね」というネットスラングがあってねと思いで話をしてから「ノンネイティブでしょうね」があたまから離れなくなってしまった、当時服スレめちゃ見てたな、まだ田舎にいて金もない中学だか高校生のおれはそうしてセレオリを馬鹿にするようになりファッションもこじらせていったんだなあ、、こんな話誰とも共有したことないけれど今後の人生で盛り上がれるような瞬間は訪れるのだろうか? ファクトタムだろうね。

「平成最後の」なんて言葉を安易に使ってしまえるジャーナリスト/メディアを信用したくないね!

ネオ・ボルテージ

小説を新人賞に投稿した。よう完成させたよな。122枚。結果は4月だか5月のあたまくらい? かましたいなと思う。豪語豪語。おれはつねづね自信過剰である。

以前しらないひとばかりが集まる飲み会にいったときに小説の話になって、でも本を読むようなひとはその場には少なく、読んだとしてもエンタメ派で(いやべつにそれはそれでいいのだが)、たまたまそのとき鞄に入っていた中上健次(『十八歳、海へ』か『十九歳のジェイコブ』)をしたり顔のおっさんに青いねえみたいな感じで小馬鹿にされておまえはいったい文学の何を、、、とかなしいきもちになったことを思いだした、ちなみにその飲み会はアムウェイへの勧誘のためにひらかれたものだった、おれはアンチキャピタリズムだよ、せめて相手みて誘えよボケナスが!

でもまあ反資本主義反資本主義ってさんざんいってるけれど、日々矛盾を感じてしまうね。現代にそうあろうとするのは引き裂かれの渦中から逃れられないってことだよね。つよい思想/思考はこういう地場できたえられるんだ。

矛盾といえばお金があったら何よりも服に金を注ぎ込みたい。おれは何よりも服がすきなんだ、、週末に好きな服を着て町を歩いてるだけでみたされるものがあるってもんだろう? 平日もスーツじゃなけりゃな、、とつくづく思う、めちゃくちゃに穴のあいた靴で出勤しているのだが、みっともないとわかってはいるのだが、会社のためのファッションに金をかけたくない、ほんとに、心底、かけたくない、、エチュードアディダスのコラボスニーカー、マーカのセットアップ、ニールのベルト、ビルディングブロックのバッグ、、物欲の塊、コエカタマリン


f:id:seimeikatsudou:20181018202438j:plain
アナアキイインザフウケイ、新宿の靴のダイワなくなってんの地味にかなしい安くて会社用にはぴったりだったんだ


闘争領域の拡大、文学がイケるタイプならだいたい会うひと会うひとにすすめているのだけれど、だーれも読んでくれないんだよな、、ティスランの背負ったかなしみについてめちゃくちゃ話したいんだおれは、

ジョージアグルジア映画祭あぶない母さん、書くことがセラピーと復讐であるのはわかるのだが、安易なトラウマの昇華という決着が物足りないし言葉に頼りすぎている。突き放すようなカメラワークとぷつぷついうきもちのわるい音響は◎ 感想で散見された「女が書く」みたいな視座から観るのはジェンダーバイアスの強化にしかならないのではと思う。

で、このジェンダーバイアスの強化ってさ、言及すること自体がそうなってしまうジレンマを含んではいないか? そもそもが女性の発言権もしくは発言が存在できなかった非常に抑圧的な時代/状態から比べればもちろんよいことなのだろうとは思うのだけれど、、

荒天へ、好転へ!