毅然、単独でのシャーベット行

作為に支配されずにいるためには時間をかけないことが有効だと思った。作為に支配されずにいる必要があるかはべつのはなし。

帰りの電車、熱をやたらに放熱するひとがいる。

TOLTA『人間関数―トルタオーディオブック』@北千住BUoY、おもしろい朗読のパフォーマンスの実現はむつかしいということを痛感させられる、単独でのいい朗読もさまざまな意匠によって攪乱され、台無しになる、演者と観客の混濁ということでいえば東京デスロックの試みに太刀打ちできていなかったと思うし、大半の出演者が演ずること/朗読することに対する自覚を以てパフォームをしているようにみえなかった、何かをひとまえでリアルタイムにおこなうことという地平において、「詩の朗読」が演劇やダンス、ライヴ、美術に対して互してたたかっていくにはまだまだ歴史=文脈の構築が足りないと思わされた

ちなみにいままででぼくがいいなと思った朗読は、エビスミュージックウィークエンドで観た和合亮一×Gotchのパフォーマンスと、ポエケットで観た三角みづ紀くらいしかない(まあ大した数は見ていないので高は知れているが)

それと、会場となったブイは、トイレもなければ電気もきちんと通っておらず、粉塵まみれのこんなんでよくイベントを打てるなという心底クソみたいな環境で、ちゃんと完成してからスケジュールを組むべきだったのではと思わざるを得なかった、廃墟自体は好きなのでその点ではよかったけれども。

アフタ-マス『くらしを豊かにするマフィンのつくりかた』@三鷹カフェハンモック、役に寄りかかった芝居による、散漫なシーンの連続、断絶の力がない、だらだらとした物語、テキストの魅力がない、暮らしの話なのに、生活がない、つまりディティールがない、とても記号的でフラット、肉がない、凹凸がない、起伏がない、その"無"の前景によってたちあらわれるものに退屈の二文字以外の言葉を見いだせなかった、つまり演出は力能を発揮できていなかった、べつのもの、あまりアートや演劇に興味をもたないひとにもおもしろいと思ってもらえる作品を、といっていたがこれでは不能だろうと思った、トークは一転おもしろかった、美術史をたいして学んでいないおれには梅津庸一の絵はよくわからないが話がうまいなーとみていた、場をきちんとつくろうという意志がみえた、パープルームの展示を観たばかりというのもあってか内容もおもしろかった、ナディッフのも観にゆけるとよい。

クエイ兄弟―ファントム・ミュージアム@松濤美術館、はじめていったがいい建築だった、白井晟一、ノアビルとかいかすよな、展示自体はまあまあ、舞台装置であるミニチュアにワクワク、映像をもっときちんと観たかった、神奈川でやってるときにいっていればちゃんと観れたのだろうか、

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ベルギー奇想の系譜@Bunkamuraミュージアム、ここもはじめていった、2点ほどでていたボレマンスがよかったのでナディッフで作品集を一冊買った、原美での個展にいっとけばよかったな、これも展示全体としてはまあまあ、後半部の現代のベルギー(とくにスカルプチュアが興味深かった)時間をもてあましていなければ決して足を踏み入れない展示だったのでその点を考慮すればめっけもん! という感じ。

雪融けを待たない仕草

自分で考えることについて考えている。すべての思想はおまえのための踏み台であり、手がかりである。自分の思想・哲学を練り上げることなしに世界は変わらない、すなわち、おまえはあらゆる思想を取っ掛かりとして、この断崖絶壁を、その困難さを自覚しながら、のぼったりおりたりすべったりくだいたりしなければならない。その点においておれは強者の思想をふりかざしている、考えることのできない事態/状態について……

埴谷雄高はこういう、「スローガンを与えよ。この獣は、さながら、自分でその思想を考えつめたかのごとく、そのスローガンをかついで歩いていく」(『幻視のなかの政治』)、シモーヌ・ヴェイユはこういう、「もっとも危険なのは、集団の個人を圧迫しようとする傾向ではなく、集団に馳せ参じ、そのなかに溺れようとする個人の傾向である」「不幸は、それ自体曖昧なものである。不幸な人々は、おのれを表現するための言葉があたえられることを沈黙のうちに哀願している」「不幸な人々に、民主主義、権利あるいは人格といった中途半端な価値しかない言葉を語らせることは、彼らに善をもたらすどころか、多くの悪を犯さざるをえない破目に追いやる、そのような贈り物をすることだ」(「人格と聖なるもの」)、今村純子のテキストが示唆に富む、だがおれは暴力に可能性をみている、それは愛をもうちにそなえうる、


チェルフィッチュ『部屋に流れる時間の旅』@シアタートラム、あ、ラース・フォン・トリアーじゃん! みたいな(検索したら同じようなこと思っているひとがそれなりにいた、かつて青土社の採用面接を受けにいったときに当時のユリイカ編集長とそんな話をしたがここにきてなるほどと思った、ここにきてというのはチェルフィッチュはすごいすごいといろいろな方面からききつづけ、ようやくはじめて観れたからであった、『God Bless Baseball』は観た、面接は落ちた)。「悲劇」における狂気的なヒロインの系譜。「散らし」ということを思った。そのタフ=強靭さ。久門剛史の強力な散らしの運動体、転換装置としての震災の読み替えなぞにいまさら意味などあるのか? 目にみえないもの(音、幽霊、未来、過去、時間)に仮託する、ゆえに観客は目をとじることをうながされる、目にみえないものは、部屋としてみえる、ひととしてみえる、光としてみえる、音としてあらわれる、、、

かの夫婦はいったい生きていた/るのか? ちょうどその日に起きた海老蔵/麻央のことを想起していたのだが、はたしてそのような血のめぐりをここに視ることはできたか? いやそんなものはなから否定している、存在のレベルの逆転、観客のシンパシーはどこに向かわせるのか、より実態をもって迫ってくる青柳いづみと、さまざまな舞台装置の方へ、、

青柳いづみをひさしぶりになまで観て、肉声ということを考える。身体なき声をいかにして立ちあげるか、そこを考えたい。文字がその内に入りこんだ発語、これは作品ではなくおれの興味関心の話。

吉田庸、すごいおもしろいと思った。本作はとにかく役者の圧がすごい、この圧によって場をもたせる、

いろいろ書いたがあんまりよさがわからなかった。これだったら『God Bless Baseball』の方が磁場のきりひらきかたがすぐれていた。人ではないものがその役割を負う、仕向けに対するこわばりが、わたしにそう思わせる? 『三月の5日間』のリクリエーションを観ねばなるまいね、小説版が収録されている『私たちに許された特別な時間の終わり』が好きなんだ、おれは。

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排気口『そしてきせきはしんじれて』のフライヤーをデザインしました。
2017年9月16-17(土日)、高田馬場プロト・シアターにて。
ぜひ、ご来場ください。

まぶしく語る

せっかくチェルフィッチュ当日券アタックできる時間に退勤できたのに家にめがねをわすれ、というか本来は昨日いって今日はロメールにいくはずだったのにむだばなしでつぶされ、どちらもまたけっきょく観れないのかとなみだでてくるので鎌田東二『言霊の思想』を買ってかえる(翌日にチェルフィッチュを観た、それはまたこんど書く

ひとを語るときにスペックという言葉をつかうおんながいて、おれはPCじゃねえぞと思ったのだが、こういう言語に何の違和ももたないで使う思考態度が平然とそこにあることのかなしみみたいなものをいわれてから数ヵ月経って思いかえしている。web上であれば一種のスラングとして、そしてデジタル空間ゆえの言語スタイルとしていいとは思うのだが……これも言葉狩り的発想? でもじっさいいわれてみるとやだからね。それに言語は変化しつづけるものであるということとこの反発は両立できるでしょ。アンチ言葉狩り、アンチ保守主義、アンチ非思考。

湯浅政明夜明け告げるルーのうた』、アニメのたのしさがあった、ノスタルジーが核(主人公ら子供世代)にないアニメ(作動しているのは親や祖父の世代)だ、子どもたちが主体となってうごく、大人たちは背後にあるものとしてかくれている、ルーがエロティック、あのピンクのあんよ、過去へと引き込まれていく老人と、未来へと歩みだす少年少女たち、おおきな壁がくずされ、頑固なカイの殻は破られ、彼らは確かな一歩を踏み出す、タイトルバックまでのイントロダクションがマジサイコー、自分のきもちを素直に言葉に乗せること、聞き取れるように、話すこと=放送のように一言一句、まちがえないように話すこと、

アニメのたのしさとは作画のたのしさである。アニメゆえの演出のことである。だが観おわったときに物足りないとおもってしまったのは本作のアニメがだめなわけでなく、おれ自身がアニメから離れすぎてしまったからのように思う。『夜は短し~』を観たときにもそんな感覚をいだいたのだけれども、テレビアニメを見なくなってしまったがゆえの鈍麻からきている気がする。『マインドゲーム』を観なおしたいきもちだ。祝、アヌシー国際アニメーション映画祭グランプリ。

マイク・ミルズ『20センチュリーウーマン』、魅力的な予告編にたがわずめちゃよかった。映画的ワンダーではなく、語り口のまぶしさ。グレタ・ガーウィグはこういうエッジの効いたひとを生きる天才(『フランシス・ハ』、『ウィンナードッグ(トッド・ソロンズの子犬物語)』)だし、主演のおばちゃんもアメイジングだった、70年代末期のパワーあふれるおんなたちに囲まれ、ひとりの少年が自立し、おんなたちも自分の立つ位置を見つける、なんというかhaimの新譜のmvに似た感覚を感じた。

体温がちがう書式への憎悪

このひとに賭/懸けたいと思えるひとと関係していくこと。その継続が自分(のまわり)をつくっていく。それはとてもむつかしい。20代の課題だと思っております。

七里圭サロメの娘 アナザサイド remix』@三鷹SCOOL、「?」という感じ。ダンサーと演劇者を配する意図は? 音楽から映画をつくっているというのに興味をひかれて観にいったのだが、けっきょくはドラマに堕している。幾層ものレイヤー(複数の映像・音声の重ねあわせ)が映像のなかにあり、映像内に配置されたふたつのスクリーンの合間からにんげんがでてくるのはおもしろかった。そこには鈴木了二のいうようなマテリアルサスペンス=反物語的物質性の表出がある(先日k's cinemaで鈴木作品と七里作品の併映があったこと思えばそこに共通の問題意識がある/見いだせると考えても差し支えないだろう、ちなみにわたしは廣瀬純の言及によって「建築映画」をしったたちで、『建築映画』自体は読んでいないのでマテリアルサスペンスの理解が多少ずれているかもしれない、どちらかといえば松本俊夫の影響下において考えている)。ただ全体としてみてみれば、作品内にでてくるような大学生的サブカルを脱していない完成度としか思えず、ダンサーをメインの登場人物に置いているのに緊張感のない弛緩しきった身体、すなわち画の力がないゆえのしょうもない身体がうつしだされていて、???となった。青柳いづみの声の力もこのようなあらわれかたではひびいてこなかった。

おもしろいダンス/身体とは何だろうかと考えながら観ていたのだが、やはりまいかいつきあたるのは、身体と言葉(意識の場所といいかえてもいい?)の関係性におけるテンションのつよさである。そこにわたしはひかれる。その点でいうとオフィスマウンテンの公演はひじょうに興味深い。

オフィスマウンテン『ホールドミーおよしお』@STスポット、のまえに前作の感想メモを。ちなみに、前回の方が断然よかった。

オフィスマウンテン『ドッグマンノーライフ』@STスポット。エクスキューズ*1をエクスキューズとして提示しない、もしくは非エクスキューズをエクスキューズとしてなげかける? 外に露出した支柱を用いて建てられた小屋のような。振り付けが単純におもしろいし、その浮かなさがよかった。もっと笑いがでる回(客)だとグルーヴがでてよかっただろうに。

*1 ここでいうエクスキューズとは、舞台に立ち、演技をすることに対してのエクスキューズである。

『ホールドミーおよしお』、前作に比べ人体のレイアウト、が前にでてきた気がする。だがその印象-イメージの薄さ(役者の自我コントロールと意識の行き先の断裂による?)が気になった。すぐれた役者と、そうでない役者のちがいがそこに集約されており、きちんとテンションをかけられるひとたち(大谷、横田、矢野)は◎、それ以外は×、の極端さが「酷な光景」を立ち上がらせていた。その凸凹さが魅力に映るかどうかは観客次第だが、わたしはまったくよく思えず冷めてしまったし、そのような意図のもとに本作がつくられているわけではないだろう。言葉遊びがふんだんに盛り込まれたテキストは相変わらずくだらなくておもしろいし、振り付けも観ているこちらがどきどきする魅力をもっている(前作の方がよかったけれども)のだから、稽古で何とかするかもしくはキャスティングをきびしくしてほしいと思った。

そして書いていて気づいたのだがこのテンションのかかった身体というのはまさにマテリアルサスペンスを引き起こすものとして見なしうるのではないか?

身体関連でもうひとつ。シアターパントマイムフェス2017Aプログラム@スタジオエヴァ。パントマイムの公演をはじめて観た。そこで考えたのはパントマイムにおける身体は物語を志向するということだ。演劇やコンテンポラリーダンスの身体が、物語との癒着を避けるものとして存在する(しないものも数多く、というより大半かもしれないがそれらには興味がないのでここでは問題にしない)のとはまったく逆の方向へちからがかたむけられ、演者は言葉なき物語を駆動させようとする。そこにエクスキューズはなく、観客は気恥ずかしい思いをしながらも演者と共犯関係をむすびながら「想像上の光景」を幻視することを試みる。その際に問題として挙げられるもののひとつに、パフォーマンスの巧拙があるが、パントマイムにおける巧さの正体とはいったい何なのだろう?

本公演はフレッシャーズ公演と銘打ってあり、若手と思われるパフォーマーがそれぞれ10-15分程度の演目を行うオムニバス形式のイベントだった。最後はゲストと称して、ヴェテランが掉尾を飾っていたのだが、それまでの演者とはあきらかにちがう質感の空間を舞台上につくりあげていた。演技における自我コントロールがよくいきわたっていたし、何より行為=状況のイメージのしやすさがあった。これを喚起力をもった抑制された身体といいかえてもいいが、これはダンスや演劇におけるすぐれた身体とイコールでむすびうるものである。その身体によって喚起されるものが物語だけでなく、そのもととなる「異質な身ぶり」自体も同時に前景してくるのがおもしろい。このあたりで思考のための執筆が、書くための執筆になってきた気がするのでとぎるが、物語を志向しながら、同衾を拒みつづけること。それがパントマイムのひとつの極点として考えられるのではないか。パントマイムの世界にも、ダンス/コンテンポラリーダンスのような区分けはあるのだろうか。ラディカルなパフォーマーがいるのであればまた観てみたいと思った。

その場でくるりとまわる身ぶりによって時間・場所が切り替わることを意味させるパントマイムの文法はおもしろく、はじめて観るひとでも瞬時に理解できるこのうごきは発明だなと思った(マームでもそんなシーンがあったような気がするが記憶が定かでない)。

森めいたうごきを教える/先生ですからね

本を読むことは左翼になることである。そういいたくなるほどに日々左へすすんでいる気がする(廣瀬純の「~である右翼」、「~になる左翼」に対応して?)。小学生のころを除いていちばん読書している。いま読んでいるのは、鈴木大拙『日本的霊性』、現代詩手帖2017年6月号、レーニン『国家と革命』、絓秀実・木藤亮太『アナキスト民俗学』。それぞれべつの場・時間に手に取っている。直近ではユリイカ2017年6月号がアウト(読了)、すばる2017年7月号、スペクテイター39号がイン。

佐藤満夫・山岡強一『山谷―やられたらやりかえせ』。なんていいタイトルだろうか。映画の出来がいいかどうかは措くとして、命がけで作品をつくるというのはこういうことだと心がゆさぶられる(本作の監督は、ひとりは撮影中に、もうひとりは完成後にヤクザに殺害される)。日本全国の寄せ場を紹介するシーンが途中ではさまれるのだが、その際にくりかえしかけられるドラムの効いたBGMがおもしろい。

ロバート・クレイマー『アイス』。60年代末期のひりついたアメリカで革命のときを待つ若者たちを描いた劇映画。ぜんぜんピンとこず寝てしまった。同じ「革命の映画」でも『チリの闘い』の方にシンパシーを感じる。メカスはどこにでていたんだ?

生まれてはじめて吉原にいった。いったといっても町をふらついて新吉原の手ぬぐいやカストリ書房の棚をながめたくらいだけれども(記念にすけべえなステッカーを買った)。浅草、山谷、吉原とじっさいに歩いてみることで、その土地の関係性に思いを馳せたり、その空気をあじわうのはおもしろい。つぎはあの古めかしい店で天丼を食いたい。

石井裕也夜空はいつでも最高密度の青色だ』。誰に向けての映画なのだろう、と思ってしまうなぞの文体(意欲的なカメラワーク、イメージ操作)にまず目をひかれる。そりゃもちろん若者だよなと思いなおす。福間健二のスタイルを想起したけれども、こちらはやっぱり若さがほとばしっている。こちらの欲望を着火させるようなエネルギー。その横溢が、すっかり身体化してしまった都市をからだからひきはがし、みなれた渋谷と新宿を映画として立ち上げる。反復運動のカタルシス

内容としては、震災やテロなどがからめられ、ずいぶんポリティカルなつくりになっていた。原作は積み本になってるので何ともいえないが、最果タヒってこんなんだったっけ? という驚きとともに観ていた。その驚きは、本作が原作モノのすばらしい映画化であることを何ら貶めるものではない。でかい世界に対峙するわたしの生活を、ていねいに、誠実に送ってゆくこと。

新宿バスタに降り立った主役ふたりの奥にみえるルミネの広告「言葉に頼りすぎると退屈な女になっていく」、サイコーだったな。そして何より、池松壮亮、ファンになった。

闘争文法の発動

想像の過剰は余剰分の切り捨て(ここで見えなくなるのは余剰したものとイコールで結ばれない)を作動させ……、と書きかけていたのだがいったい何について記そうとしていたのか思いだせない。たかだかみっかまえの、しかも言葉にしたことの記憶さえあやしいとは思いやられる。

福間健二特集へ足を運んだ。観逃していた『秋の理由』。同監督においては『あるいは佐々木ユキ』がすきなのだが、今作は映像の核が、持ち味である「詩」からドラマへとかたむいた感があり、あまり好みではなかった。主演の伊藤洋三郎の演技がひどかったのもマイナス要因。とはいえ女の子を撮ることに関しては、やはり福間健二はすばらしい。趣里は『恋につきもの』でもよい存在感をはなっていて名前をおぼえていたのだが、本作においても卓越したエネルギーをスクリーンにきざんでいた。また作家志望役の木村文洋も特異なたたずみを発揮していて、その監督作を観てみたくなった。上映後のトークはただ登檀者たちが並んで座っているだけでおもしろく、さらに話自体もそれぞれの老獪さが炸裂していたので非常に満足した。

あとはN.S.ハルシャ展@森美にいったり、ピラミデビルのギャラリー、complex665のギャラリーをめぐったりした。ルイジ・ギッリがよかった。『写真講義』は高くて買ってないのだが、いいたたずまいをしているよな。森美もベリファニーだった。

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ジー・メンツェルの『剃髪式』、はじめて観るチェコの監督で、ひじょうに多幸感にみちた映画だった。映画史上ここまでさわやかで、幸福な青姦シーンはあっただろうか。観おわったあと、想起したのはベルイマンの『野いちご』だった。女優がダーシャすこし似ていたな。

朝起きると顎がいたい。夜になっても痛いまま。睡眠中、歯ぎしりしまくっているのだろうか。嫌だな。

ちんたら書いてる場合ではない。速度、速度。

起草できる馬場にて

GWの収穫。小泉明郎「帝国は今日も歌う」@VACANT、ミヒャエル・グラヴォガー『ワーキング・マンズ・デス』@イメージ・フォーラム・フェスティバル2017。ともに今年のベスト級。前者の「いま目の前にしているものがよくわからないままにうちのめされる感」、この理解を超えた感動がなんらかの作品に対峙したときあらわれるものとして最上だと思っているのだが、ひさびさに感覚した、と思ったけれど先日DIC川村でマーク・ロスコの部屋に足を踏み入れたときも感じたのだった。自分がいま立っている(存在している)場がくずれはじめ、重力がねじれていくような作品自体の強烈さ。感情をゆさぶる強度が強度として迫り、身をぐらつかせる映像の力。現実がおそろしい、ほんとうにおそろしいと思わされた。マームとジプシー『COCOON』再演のときに感じた、いまわれわれが生きている時代/日本がもつ暴力をむきだしにしているように思った。皇居を撃つ作家の姿をみてうちふるえることを拒絶できない「わたし」の所在を考える。

後者も「この現実」にビリビリくるドキュメンタリー。世界の辺境ではたらく人々のすがたを、いったいこれどうやって撮っているの?(笑)というスタイル(カメラワーク、被写体との関係性、撮影者の不在感……)で映像に焼きつけた大傑作。ドキュメンタリー映画を観る際にまいかい考えるのは、これは映画として優れているのか、それとも映されている現実がすごいのかということなのだが、本作はその両輪がうつくしい調和のもとに、過酷さのなかで生きるワーキングマンたちの軌跡をちからづよく描きだしていた。ウクライナにある採掘禁止の炭鉱、インドネシアはイジェン火山での手作業による硫黄採掘、ナイジェリアの青空屠殺場、巨大船解体所inパキスタン、中国の近代化した製鋼所、ドイツのテーマパーク化されたかつての工場。すべて現代(撮影当時:2003-4年頃)の話であり、そこに生きるひとびとはわれわれと同じように家族があり、信仰があり、ボン・ジョヴィを聴き、歌をうたう(本作において、労働者たちはとにかく歌をうたう。それはひとつの生きぬくすべである)。鑑賞中は映しだされているシーン自体に驚嘆しっぱなしなのだが、とぼけたユーモアと「圧倒的現実」のつよさによってあぶりだされる資本主義の獰猛さ(どんなに末端の市場にもヒエラルキーが構成される……)にはとてもおそろしいきもちになる。

とりわけ注目すべきは、国家を支える労働者の、勇ましい弁舌がふるわれるソ連プロパガンダフィルムに、ジョン・ゾーンの高揚感あふれる音楽が重ねあわされることによって本作が始動することだろう(そして、このオープニングにより、観客はいまからはじまる映画が傑作であることを瞬時に理解する)。このような作品は、安全な地帯から映画を眺めるわれわれ観客が胸を撫で下ろすための映画になってしまってはいけないと思うのだが、ジョン・ゾーンの音楽は全編にわたり、その危うい回路を回避するための宣誓のように鳴りひびいていた。

パキスタンにおける巨大船の墓場は、2014年の横浜トリエンナーレでも題材にとられていた(ヤスミン・コビール)。原一男的ズームアップ、スローモーションが多用されたパワフルでエクスペリメンタルなその作品も印象深いものだったとグラヴォガーの映像を見ながら思いかえす。とはいえ『ワーキング・マンズ・デス』は、横トリのものとは異なり、そこではたらくひとびとの過酷さのなかのユーモア、使い古された鋼鉄のもつ崇高さ/無常感にスポットが当てられていたように思う。ちなみにエンドロールにではアウトテイクが使用されているのだが、ナイジェリアの屠殺場のシーンで豚の死体があらわれ、きみたちイスラム教徒なのにそんなことをしていいのかいとふきだしてしまった。

そのほか今年のイメージフォーラムフェスティバルではF(中村衣里『閉塞』/木村あさぎ『鱗のない魚』)、R(ミヒャエル・グラヴォガー『無題』)、T(ジョシュア・ボネッタ+J.P.・シニァデツキ『エル・マール・ラ・マール』)、U(ラティ・オネリ『陽の当たる町』)、J(ジム・モリソン『ドーソン・シティー』)プログラムを、展示では高木こずえ@αM、ジョージェ・オズボルト@タロナス、クリスタ・モルダー@kanzan gallery、椿会展@資生堂ギャラリーアブラハム・クルズヴィエイガス@メゾンエルメス、ダン・フレイヴィン@エスパス ルイ・ヴィトン、「待宵の美」@THE CLUB(GINZA SIX)なども観た。筆が乗れば後日触れようと思う。まあ、この記事をだらだら書いていた所為でもう5月も終盤なので乗らないでしょうね。ちなみにロスコは生で観るまではぜんぜんよさがわからなかった。対面してはじめて、モノとしてのプレッシャーの半端なさを実感し、感動した。

小林秀雄岡潔の対談(『人間の建設』)を読んで何をほざきちらしているんだこの老害どもはと呆れかえっていたのだが、『栗の樹』収録の「感想」を読みすすめるにつれてあ、小林秀雄はおもしろいかもしれないと思いなおし、そういえば安吾小林秀雄論を書いていたよなと『堕落論』をひっぱりだして読みかえすにこのアジテーションと野性味こそが! と鼻息を荒くする2017年5月夏日。

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排気口次回公演の仮チラシをデザインしました。
2017年8月末、新宿ゴールデン街劇場にて。
詳細含めた本チラシは来月公開予定です。
どうぞよろしくお願いいたします。