ピークアウト幻想時代

真夏です。ポケモンgoをしています。わりとたのしい。であるくことがふえる。次のサンムーン買いたくなる。首ながナッシーはやばいと思った。

先週末の日曜日には、はじめて二子玉川に降り立った。トーキョーアートフローというイベントにゆくためだ。第0回ってことでアート感はあんまりなかったけれども(周りかたをまちがえた?)、夕暮れていく河川敷のロケーションはすごくよかったのでこんごもちゃんとつづけていってほしいです。川はいいよな。無料で開放されている日本庭園があったのも○。おれは将来森にすむよ。

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写真には写っていないが馬もいた

かえりはバスに乗った。おれはあまりバスに乗らない。なぜなら路線にくわしくないから。でもバスに乗るのはたのしい。ふだんとはちがう町がみえる。せっかくスマホをもってるんだからバスにくわしくなれそうなアプリを探せばよい。バリ料理を食べて家に帰った。「ゴレン」というのは、インドネシア語で炒めるとか揚げるとか、そういう意味であることをしった。

今月の現代詩手帖がおもしろい。特集「2010年代の詩人たち」。まだぜんぶ読めていないけれども。年代でくくる暴力はさておいて、こういう「○○年代の~」とかに弱い。あと佐々木敦の『パロール・ポエティーク』の刊行がきまってうれしい。現代詩に触れはじめたころ、図書館にこもって何回分かを読んでいた。ちなみにぼくが10年代の詩集を1冊選ぶのなら、金子鉄夫『ちちこわし』(2012年、思潮社)です。

たたかいタクティクス

胃がいたい。おれは胃が弱い。ストレスは胃にでる。大学受験に失敗したとき、胃潰瘍になってタール便(くろいうんこである。血がでてからしばらく時間が経っている=出血場所が尻穴からとおい証拠で、真っ赤な血便の場合は肛門のちかくで出血していることを意味する、というあした役に立つクソ知識)がでたのにはたいそうショックを受けて、対面に座っていた女医にそのことをいいだせなかった思いでがある。いまのこれはべつにストレス由来の腹痛ではない気がする。のだが、めちゃいたい。

というようなことを金曜の夜に書いていた。
いまは日曜、午前である。
昨日、一昨日と演劇を観た。新聞家『軟禁の正常さ』と、アイスカハラ(でいいのか?)『こわがることを覚えるために旅に出た若者/泥』である。前者は、毎週金曜21時頃から中目黒のユーティリティキャンバスという帆布生地をつかった衣類を取り扱っているお店でおこなわれている演劇で、演劇そのものよりも、終演後に必ずおこなわれている「アフタートーク」を、より「話す場」に近づけたかたちにしている点が魅力的だ、といってしまうのはちょっと暴力的だけれどその豊かさがいいんだ。

そもそも演劇とは軟禁的状態をつくりだすものではなかったか?

新聞家でのトークでの議題と、アイスカハラでのステートメントの齟齬がよかった。

おもしろい身体をつくるってのはオフィスマウンテン『ドッグマンノーライフ』観たときに感動したのだがむつかしいよな。

ここから7/1、現在形。
わたしがこの場に加担しているという意識があるかぎり、軟禁状態はうまれない。しかし、そこから疎外されている、強制されていると思ったときに軟禁は立ち上がりはじめる。すなわち態度の選択が「軟禁」なのであって、客観的軟禁などは存在しない。
ただ、わたしはこの場に加担しているという自覚がなく、疎外も強制もされ(ていると思わ)ず、ただ「いる/ある」という状況においての存在とは暴力ではないか(わたしがいまここで書きつけているのも暴論だけれど)。
今日のトークは、豊かさが押しつぶされていく瞬間がなんどもあって――それは胃がいたいと嘆いていた日にもあったけれど――、とても「軟禁的」だった(いまぼくがここで話している「軟禁」は、タイトルの『軟禁の正常さ』における「軟禁」とは異なるものを指していると思う、こういうズレをなんとか擦りあわせようとする、ズレたままでものごとがすすんでいくことを回避しようとする態度をぼくは支持したい)。さいごに発言をした、身体パフォーマンスをやっているひとの空気の変えかたあるいはその変化がほんとうに救いで、それがなければおれはいまよりももっと気落ちしていだろう。ああでもだからといってこういうじめじめした解決のしかたはよくないよな。言葉で生きてるにんげんって、だから健康的じゃないのかっていまわかったよ。

浮動することの楽さに身を寄せずに、極端へと傾いていきたいのがいま脳みそに浮かんでいること。岡田利規『三月の5日間』でNOと叫んだ男はべつに過激主義者ではない。

フック、ブロ! ブロ!

ブログを書くぞと思うときはだいたい身体や精神に負荷がかかっているときが多い。かといって書かない日がつづいていたさいきんが、晴々としていたのかと問われればそれはちがうのであった。でもこないだひとりで神奈川近代文学館へいって、中華街でカレーを食べ、安部公房多和田葉子ラテンアメリカ特集のスタジオボイスを買ってからSTスポットで演劇を観て、翌日は友人のライヴを観てからカサヴェテスを観るという時間が過ごせたのはとてもよかった。詳細はのちのち書くと思う(ほんとか?

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神奈川近代文学館のある公園からみえる風景

前回の末尾で触れた中上健次はすでに読みおわり、バロウズの『トルネイド・アレイ』を経て、『チェ・ゲバラ伝』で闘志を燃えたぎらせたあと、古川日出男の『二〇〇二年のスロウ・ボート』に突入した。古川日出男は福島ということでつまり同郷なわけでそういうところに親しみをもってしまうよね(こういう連帯のありかたは、いきすぎてしまえば選民主義とかレイシズムに通じていくのだろうな
中上健次のにくにくしい感じはよいよな、ジェイコブはまあいままで読んだほかの作品に比べてそんなに好みではなかったけれど。
バロウズのはうしろの小論の方が長いっていう構成がおもしろかったね。それを書いてる椹木野衣の文の飛躍のしかた/強引さがよかった。こういう腕力だよな。これは装画の大竹伸朗、訳者の清水アリカ、著者のウィリアム・バロウズというこの本に関係する3人を、「ゴミ/ノイズ」をキーにして読みとくっていう構成になっているんだけれど、直後に読んだ『子午線通信』創刊号の稲川方人の文章とも接続できる感じがしてそれもぐっどだった。本自体のたたずまいも○。
ゲバラはもうとにかくアツいよな。『アカルイミライ』のラストシーンとか大好きなんだよおれは。ラテンアメリカ特集のスタジオボイスを買ったのはゲバラ伝読んだからだよ単純だなあ。積んでる『百年の孤独』とか『ペドロ・パラモ』とかいまが読みどきだな。

さいきん3万のTシャツを買った。あまり躊躇することなく、あーこれいいなー買おうーとゆるやかなスムーズさで買った。やっぱり服がいちばん好きなカルチャーだなと思ったよ。これまではお金がないから買えなかったけれど、お金があれば買ってしまうんだよ。つぎ込む優先順位の変動というやつだ。漫画買わなくなってしまったな、あんなに好きだったのにコミティアにもしばらくいけていないな、いきたいな。好きな服を着て、好きな場所へでかけていくことの幸福さ。自由な時間をぎゅうぎゅうにしばられているいま、その尊さやあたりまえ性をつよく思っている。これまでの人生、ひとりでも服の話ができる友人がほしかった。

何かを抱きしめる姿勢

とくに何かあるわけではない。いや、そんなことはなくて書きたいこともたくさんあるのだが、時間を置きたいと思ってしまう。距離を取りたいと思ってしまう。満員電車で抱きあうカップルがちかくに二組もいて、そのうちひとりのおんなの爪がおれに刺さって、とくに謝罪の言葉もなく、おそらくおれへの感覚もなく、愛はもっとひらいていていいんじゃないかとか思って、孤立することで自分を守るのではなく、つつみこむフォームのありかたを志向したいとか、それでいて角は立ちつづけているとか。

感覚が論理となっていく課程と、論理が感覚になっていく課程のちがい。

指のいちぶがもげてしまってなんかさいあくだ。わたしの治癒力はどこまでかたちを元通りにできるのだろう。

昨日、友人の撮った8mmの映像をみて(映写機うらやましい!)、コダックのあたらしいスーパー8はぜったい買うぞという思いをつよくした。

ドアのたもとで座りこむあなたのまなざしの先に、どうか言葉がありますように。おれはいまだいぶまえに買った中上健次の『十九歳のジェイコブ』を読んでいるよ。きみはいったい何を読んでいますか。

遠さをかみしめるためのビニールのてかり

けっこう前に思ったことを書き残しておく。それを見返して「即」のすぴーどで走り書いておく。帰りの電車を降りるまでがわたしのタイムリミットである。

地震がおこった。震度7。熊本。その遠さがやばいしまずいと思った。東京という感じ(東京に転嫁するな

自分の想像力の限界がかんたんに露呈するよな。おれは福島で311を体験したけれども、やっぱり温度差があるよな。福島-他県、内陸-沿岸とかいろんな軸においてね。学生時代に沖縄問題(この沖縄+問題という表記が成り立つってやばくない?  書いててふざけてるなって思うよ。だからあえてこう書くよ)に関するドキュメンタリー映画の撮影を手伝っていたのだけれども、その体験は自分のなかでいまだにすごく生きてるんだよ。高校のとき、修学旅行が沖縄でぜんぜんつまんねーーとか、もういかなくていいわーとか思ってたんだよ。でもいまはちがうわけ(イントネーションはひがさん)。これは、沖縄の背負う歴史性をしって日本人としてちゃんと向き合わなくちゃいけないなと思いましたとかそういうことじゃなくて、単に距離がちかくなったってことなんですよ。沖縄に友人がいる、福島に家族がいる、熊本に、タイに、シリアに見知ったちかしい存在がいる/ある。そういうところを越えた想像力をどう培えるかってことが平和をつくりだすんだと思います。

先日24歳になった。若さを理由にできる季節がおわりに近づいていることははたしてかなしみだろうか。詩集を編みたいし、小説をひさしぶりに書くぞと思っている。いま、おれの肩に寄りかかっている疲れきったサラリーマン(しかしこいつは酒を飲んできている! うらやましい!)の人生にはとどくことのない言葉かもしれない。反対側のナンプレをやってる息のくさいおっさんにもおそらくひびくことはないだろう。それでも書くしかないと思うのは、言葉の射程を信じているからだ。

永い空気を吸う態度で

演劇の話をしようと思う、とかいうから更新しなくなるんだよという自分と、そうやって言葉にしていかないと何もやらないだろという自分が殴りあっている。なのであいだをとって演劇の話をせず更新する。自分のために書くこと。その場その場で書いていかないとだめだよ。かたちにしようとする意識を即座につみとることが健康のためになる。はず。

この春はビビッドカラーの服と、かっちょいいセットアップを着ようと思っている。ぼくの思うかっちょいいセットアップというのは、大学受験のときに吉祥寺で見掛けた若い男のひとが着ていたもののイメージがつよい。深い青で、シルエットがしゅっとしていて、何よりそのひとは2日連続でその服を着ていた! なのでそんなセットアップがずっとほしいなと思っているのだけれど、なかなかこれだというものが見つからない。今年こそはあざやかな色味をしたシャツと合わせて、サプールみたいにバチっときめたい。でもなんか見つかる前に春がおわってしまうのでは感がある。だってもう暑い。でも妥協したくない。

こないだアラバキに行ったんですよ。5年ぶり、2回目。ツーデイズは初めて。サイコーだった。フェス自体がひさびさだ。2014のベイキャンプ以来? たぶん? サチモスとピロウズ水曜日のカンパネラあたりがよかったなあ。シオンとイースタン激エモ。エモさは正義だ。芝生に寝転んで遠くから聴こえるフジファとかむちゃぐっどシチュエーションだったし、サンボとブラフのコラボ企画もアツかったなあ。サカナも後半だけ聴けたけどちゃんと丸々聴きたいなーと思わされたね。オワリカラ×あがた森魚のサブマリンが耳から抜けない。まいふぇいばりっとバンドであるバックホーンはなんかだめだめだったなー。おれの身体性も客のノリと波長がまったく合わなくてそれがいちばんの理由。メタモルフォーゼしてるよおれ。

あと8月のアラバキしか体験してなかったもんで、本場(4月)の寒さには殺されてしまいましたね。次いくときはちゃんと対策しなきゃと思いました。
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俺のいらだちは草臥れている

前日のつづき。

青柳いづみが好きだという話。でも『夜三部作』にはでていなかったという話。そもそもちゃんとタイトル書けよという話。『夜、さよなら』、『夜が明けないまま、朝』、『Kと真夜中のほとりで』の3本だての話。

で、この3本をつらぬいているのが「不在」で、この3部作は「不在を語る物語」であるといえるのだけれど、奇しくも青柳いづみの不在を感じさせない役者のタフネス/存在感がよかった。同じく青柳いづみが出演しなかった『ΛΛΛ~』では少々物足りなさがあったので、今作での役者の成長ぶりというのは目を見張るものがあったかなと。

そして言及したいのは劇中で流れるムーム! こうして音楽に新しい意味付けがなされるのだなあとなんだかいたく感動してしまった。

ところで、ぼくの思う青柳いづみのいちばんの魅力といえば脆くもつよい身体なのだけれど、この身体性というところに着目していうのであれば、成田亜佑美は弱き身体、吉田聡子はぴりついた身体ということができる(川崎ゆり子さんは無邪気な……?)のではないか。

で、もう一段階踏み込んだことをいえば、今後の作品では「ああ、マームだな」で完結させない姿勢を期待したい(残念ながら寺山に行けなかったので現在のマームがどう変化しているなのかはくわしくはわからないのだけれど)。頭打ちの手法をいかに打破していくのか、音響劇の次は何か。いまのマームにあるのは何のつよさかといえば、言葉のつよさ。負荷における比重は身体だけでなくもっと精神にもあっていいのではないか。

cocoon』再演では、時間軸の置き場としてのいま→未来への移行があり、声の演劇から音響芸術としての演劇への変移が見られた。過剰さを削ぎ落としたリフレインの洗練さも感じた。死の薄まりと普遍性を手に入れたことによるさらなる強度の獲得もあった。ドラマティックであることを背負い込んだ身体の魅力もあった。観劇するわれわれが生きている時代の空気が初演からの年月を経て、見違えてかわっているのだと認識することとなった。

特筆すべきは尾野島慎太郎の異形さ。とはいえ、個人の際立ちが背景と化した感があり、全体的に初演とはまったくの別物として立ち上がっていたのだが、どちらがよかったかといえば初演の個の切実感に分があるのではないだろうか。

しばらくは観た演劇について書こうと思う。おわったら映画について書く。どちらもここ1年半くらいのメモ書きがたくさんある。書き記しておくこと、目に見えるかたちで残しておくこと。そのフォーマットにおいて「雑であること」を意識すること。