すべての電車がぶっ壊れたらこんな思いをするひとはいなくなる

電車に乗っているとほんとうに殺伐としてくる。疑問符ばかり浮かぶ。テロを起こしたくなる。ひじょうにポリティカルな問題だよこれは。自分がテロリストになってしまうかもしれないという考えがきみの頭には浮かぶかい。もしわずかにでもふくらんでいるのであれば、そのきもちをぼくは信用したい。


ユトレヒトでZINEをぱらぱらめくっていたら、みみやさきちがこの名前を発見した。略歴を見たら85年生まれで桜美林卒。マームとかと同時期じゃないか、なるほどねとなんか納得してしまった。ちかくにいたりしたのだろうか。詩手帖に投稿をはじめたころ、図書館でバックナンバーをひたすら読んでいた(といっても通読じゃなくて拾い読み)のだが、そのときに読んだ「あおいらせんかいだんんんんんん」(タイトルうろおぼえ)という作品がとても好きで、以来ぼくは彼女のファンである。はやく詩集でないかなあとか、創刊準備号だけ発刊して動きが止まっている詩誌/文芸誌をだす際にはぜひ一筆書いてもらいたいなあとか考えている。


マームといえば『夜三部作』をしばらく前に観た。これはちょう雑にいうと妹がいなくなってしまう話で、歳の離れた妹がいるぼくにとっては、観劇中ただただ涙を流すしかない作品だった。兄である尾野島慎太郎にやどっている「いまを許すことができるか」という倫理観は、誠実だけれど、どこまでいっても破滅形でとてもつらかった。「ここで耐える」ってことに対して、どこまで自覚的でいられるかがひとの生きかたを決めるんじゃないだろうか。いいすぎか。

話はかわって、誰かを通して自分を視ることは、鏡を見ることと似ている。というようなことを登場する女性たちを観ていて思ったのだけれどそんなのあたりまえすぎてつまらない感想だなといま書きながら思っている。それでもあたりまえじゃない感じで舞台の上にそのような印象がのっていてよかった。

マームとジプシーをはじめて観たのは『cocoon』の初演で、以降、公演があるたびに気にかけている。なんといってもぼくは青柳いづみの身体性にぼかんとやられてしまったのだが、本作に彼女は登場しない。

ねむい、耐えない、つづきは明日。

あまりのつらさにふらりと入った駅ビルで親しみ深そうなサボテンを衝動買いしてしまいそうになる

アピチャッポンの『世紀の光』観た。特集ぜんぶ観ようと思っていたのにこれしか観れなかった。ひとやものにフォーカスを当てるんじゃなくて、現象そのものをうつしとることで「見ること」の緊張感をあぶりだす感じがよかった。何年かまえに演劇作家のむらこそさんや映画監督のひがさんから「アピチャッポン」という声にだしたときの口の感じがたのしい名前をきいてからずっと観たかった作家なので、ようやっと観れたという感慨がおおきい。光りの墓も観に行く。

メカスの『フローズン・フィルム・フレームズ』を読み終えた。『幸せな人生からの拾遺集』も観た。たまたま連続して観たからなのだが、クストリッツァの『アンダーグラウンド』とメカスの作品を並べてみたときに浮き上がってくる、祝祭的/幸福な戦争の語り口のしなやかさにはやられてしまった。けっしてポリティカルではない身ぶりで「戦争」を描きながら、それをおこなう主体はひじょうに切実な政治性(たとえば、難民という属性)を背負いこんでいる。メカスは前掲書のなかで下記のように直接的に明示しながら、作品のなかではそのそぶりを見せない。このアンビバレンスな作品/作者のあり方に感情と足場がぐらぐらとする。

「わたしは一度としてぐっすり眠ったことがない。/これからも決してぐっすり眠ることはないだろう。/なぜならわたしは一度だってふるさとを離れたいと思ったことはないのだから。/なぜなら、一度だってここに来たいと思ったことはないのだから。」

「三十年も旅をしたあとで難民が、亡命者がなおどんな思いを抱いているかきみたちは知りたいか。本当に知りたいか。/それなら教えよう、聞くがいい。/きみたちが憎い!/きみたち大国が憎い!」

「われら亡命者、われら難民、われら居所のない者たち。/わたしはこのことをきみたちに言うために、ここにいる。/わたしはきみたちの所業に目をこらし、ひとつひとつ記録してきた。/そうだよ、大国諸君。/わたしは詩人にすぎない、ホーム・ムーヴィーを撮っているちっぽけな人間にすぎない。」

さいしょにイメージフォーラムで『ウォールデン』を観たとき、さして気に入ったわけではなかった。難解だ、と思ってしまった。第二部を観終えたあと、映画館から青山通りへでて、信号待ちをしているときにさわがしいバスが目のまえを通りすぎていった。アルティメットパーティバスとかいうギラギラした乗り物が、たのしげな音楽を鳴らしながら渋谷駅の方へと走り去っていった。光、動き、音、光。これか、と確信はなかったが、そう思った。当時のぼくはそこに疑問符と迷いを入れ込んで「何が映画なのだ?」と間抜けなことを書き記しているが、いまなら「それだ!」といってやることができる。むかしのツイートを読み返してみると、バスには「ふざけた酔っ払い」が乗っていたらしいのだが、それに関してはすっかり覚えていない。記憶は都合がいいな。
さいごに『フローズン・フィルム・フレームズ』から好きなエピソードを。再版しないかなあ。たいせつに持っていたくなる本だ。

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一九七六年一一月九日

 スプリング街を歩く。トンプソン街との交差点にある銀杏は昨夜のうちにすっかり落葉してしまった。地面は黄金でいっぱい。
 一つくらいのこどもを連れた若い女が落ち葉のじゅうたんのうえで歩みをとめた。こどもはまだよちよち歩き。落ち葉が面白いらしく、目をこらして見ている。びっくりして落ち葉から目がはなせない。とつぜん木の葉のなかに転がっているコカコーラの王冠が目にとまる。こどもは思わずちいさな手をのばした。その瞬間、ポーン――こどもが王冠をつかむ寸前に母親の足が先回りして、びっくりしたこどもの指先から遠くに王冠を蹴飛ばした。母親はしばらくぼんやりとたたずみ、やがてこどもの手を引いて立ち去った。
 わたしは銀杏の下に立ちすくんでしまった。母親はべつにたいしたことをしたわけではないし、連れていたのは自分のこどもなのだろう。こどもにひとこと触ってはだめよと声をかけ、優しく手を引いてやればすむことだ。わたしはウーナにはいつもそうしてきたし、それで用はたりた。ウーナが一歳のときでも。
 わたしは銀杏の下に立って考えた。わたしたちはあんなふうにこどもたちを教育しているのだ、人間性とはこんなものなのだ、わたしたちがこんなふうなのはそのせいなのだと。
 足が王冠を蹴飛ばしたとき、こどもの小さな心にどんな思いが浮かんだか想像してみた。こうしたことがつみかさなると、こどもの心がどのように形づくられてゆくものか、考えてみた。季節は秋、地面は黄金色の落ち葉でおおわれ、天気も申し分なかった。それなのに、あんなに乱暴に蹴飛ばすなんて……。
 わたしは交差点に長いこと立ちすくんでいた。そして、ソーホーの散歩をつづけた。
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土偶になりたい/レッドクレイオラを無限リピートする土偶だ

ドラマ版の『わたしを離さないで』を毎週たのしみに観ている(おわってしまったね、あと最終話観るだけの状態、だったら観てから書けばいいじゃないか、でもまあいいかというきもちでパブリッシュ)。原作も映画もとても好きな作品なので、放映前から心待ちにしていたのだが、日本のねちねちした社会空間への舞台転換も成功しているように思えるし、すごいスピードで話がすすんでいくのでこれどう終わらせるのだろうと序盤にして期待がふくらんでいる(と、3話くらいまで観て思っていたのだが、それなりにちょうどよいはやさなのかなと思いなおしている。テレビドラマを観るの、すごくひさしぶりだ)。あと綾瀬はるかのことがあまり好きではなかったのだが、見ているうちにふつうぐらいにはなった。ところで、ときどきでてくる屁は小津だろうか。

先週は終電がえりがつづいていた。深夜限定たのしいテーマパークこと工事中の新宿新南口も4連夜ともなるとマイナスのきもちがつよすぎてワクワク感が減るなと思ったのだけれど、駅を抜ける頃にはやっぱりうきうきしていた。もうそろそろ完成してしまうから、ちゃんと見納めしておこうと思った。

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浅瀬の溺死体が群れだす前に

未完成の下書きだけがたまっている不健康な状態なのでもっと息するように言葉を書いて、いこうって、そう思ってあたらしくブログをはじめたはずなのに、こうやって自然さがなくなりはじめているから、あらがう。がうがう。

きもちが暗い。ひとと話すのがへたくそすぎて誰とも喋りたくなくなる。でも他者を求めている。だいたいはコードがちがうからおもしろくない。おれは何の話がしたい? 浅瀬で溺死しそうだ。

どこに時間を擲つかだと思う。やりたくないことに身を投げ入れていることがとてもかなしい。書いてて涙でてきそうになってきたのでもういい(日を置いてこの文章を読み返している。言葉のあいだあいだにふくらみがうまれて、筆記当時のかなしみは細まっている。時間を置くこと、引き延ばし、延長)。

自分がいま置かれている立場や境遇を、別の誰かに話す、その行為をくりかえすことでひとは健康に向かえるのだろうか。同じ話をするたびに、何も変わっていかない自分を実感せざるを得ないのがつらい。飲み会でくだをまいて満足する自分もいる。死ねばいいと思う/殺さなくてはならない。

自身に責任の所在をおけないことに対して真摯でいようとするのは全身が引き裂かれるようである。自分を裏切りたくない。いまと並走していたい。

『メニルモンタン、2つの秋と3つの冬』を観た。ちょくちょく物語に挿入されるカメラを意識した回想的モノローグや、映画や絵画など数々の芸術作品(ブレッソンムンクジャド・アパトー……)に対する言及など、随所に遊び心がきいていてよい。ギヨーム・ブラックのいくつかの映画(『遭難者』、『女っ気なし』、『やさしい人』)を観て以来、本作でも主演をつとめているヴァンサン・マケーニュのファンなのだが、今回も彼のチャーミングさが全体の「にくめない感じ」をつくりだしていた。あと日本版のフライヤーがとてもいい(オリジナルはともかくUS版はちょーダサい)。

たったいま、目のまえでひとがたおれるのを見た。何もできない。何もできないが。

感情の誤解をねじ伏せる

ひさしぶり=たのしい、というのはただの錯覚で、じつはそれだけではたのしくないのではと思いはじめている。ひとと会うときや場所にゆくとき、何かをするときの話。こうした誤解をていねいにといていくことでよりよい生活が営めると信じている。でも「誤解」ってたのしい。

東京にきてからはじめて神保町の古書店街をめぐった。金を遣いまくってしまいそうな気がして自ら避けていたのだけれども、2~3時間滞在してけっきょく1冊(『月刊ポエム』1977年6月号)しか買わなかった。これならほかの場所のお気に入りのお店に行った方がよいなと思った。古書店街に行くまえ、九段下あたりでカラフルなパーカーの集団をたくさん見た。武道館へ向かうモノノフたちだった。そこでおれは神保町と逆方向に進んでいることに気付いたのだった。

タルコフスキーの『映像のポエジア』が渋谷に6000円で売っていた(ぼろぼろだし高い)。大学時代に読んで以来、ずっとほしいのだが絶版。今年は没後30年ということで復刊しないだろうか。あと『インスタント・ライト』も!

さいきん買った本。『子午線』vol.4、『ポパイ』の仕事特集、ラース・フォン・トリアーほか『ラース・フォン・トリアー スティーグ・ビョークマンとの対話』、ジョナス・メカス『どこにもないところからの手紙』(書肆山田のレーベル「りぶるどるしおる」の「りぶるどるしおる」という見た目とひびきが好きだ)。

滞留の習性にむりやり折り目を付けていく

寝不足で電車に乗るとたまに脳貧血になってうずくまったりするのだけれど、東京では誰も助けてくれないのでつらい。では地方では助けてくれるのか? べつに東京は敵ではない。そもそも地方では電車に乗らない。つり革につかまってもう電車になんて乗りたくないと思っていると、隣からか細い歌声が聞こえてきた。イヤホンを耳に挿した女が小声で歌っているのである。小田急線ではときたま、安倍総理に手紙を送れと演説をするばあさんにでくわすことがある。そういう自由さに対していいなと思う「わたし/あなた」と、うるせー死ねと思う「あなた/わたし」の差異が可視化されることは少ないけれど、公共空間はこうした「ちがうひとびと」をきわめて近い距離のなかに集めてしまう。
以前、満員電車から吐きだされるとき、ドア横に立って足をかけてくる悪意の塊みたいなひとがいて正気を疑った(ちょうど変な歩行のリズムだったので引っかからなかった)。妊婦に足をかけるとか、そういう言説をネットで見かけるたびにそんなひとほんとにいるのかと思ってたけれどいるんだろうな。こういう摩擦に身を晒すことがほんとうにいやだ。
さて、この悪意ある暴力行為と、歌や演説といった悪意なき暴力行為を分け隔てるのは何か、とここまで書いてリンギスを読めばいい気がしてきた。『信頼』とか。

眼鏡を変えてから急激に目が悪くなった。眼科にいかないとと思いつづけてしばらく経つ。いけるタイミングが土曜日の午前中とかしかないのだが、二度寝三度寝して眼科の予定どころかいちにちを台無しにすることが増えている。今週末は早起きして、颯爽と眼科を受診しアケルマンの特集上映に駆け込みたい(先週行きそびれた。春にやる藝大での再上映でまた観れますように)。

何か予定や問題がたくさんつまっていてどうしようかと悩んでいるとき、まず家をでてから考えるということをしていきたい。動かない日が精神を不健康にしている気がする。

雪見だいふくっていつからあんなにちいさくなってしまったの

1年弱隣人のいない部屋に住んでいたのだが今夜とうとうその平穏は引越しのあいさつの菓子折りの袋とともにやぶられたのであったマドレーヌをどうもありがとうもぐもぐ。だから三角みづ紀の『隣人のいない部屋』を読んでいる。サイン入りだぞいいだろう(2年前のポエケットのときに書いてもらった。そのときおこなわれた朗読における言葉と身体の関係性と、そのはりつめかたは忘れられない)。

ユリイカ』の坂口恭平特集を読み終えた。著書はこれまで1冊も読んだことがないのだけれど、アツコバルーでやっていたトークイベントに行ったことがあって、そこで感銘を受けて以来何から読もうかなと迷っていたところで発売されたのでいえーいって感じだったしよい足がかりになったと思う。執筆者にもいた栗原康の著作とか積んであるソーヤー海の『アーバンパーマカルチャーガイド』とかこないだ買った『記号と機械』に接続させて、経済資本主義に従属しない生き方を模索していきたいよね。ブルデューが好きなので文化資本主義(『記号と機械』のなかにもリフキンという名前とともにでてきたけれどラッツァラートは否定的だったしそもそもリフキンをしらない。というか「文化資本主義的」ってどんな生活様式に結び付く?)とか、いいよねって思うんだけれどけっきょくそれも資本主義の範疇だよね。よねよね。はあ生きにくい。生きにくいぞこのやろうばかやろう。

次号の詩手帖、音楽と演劇を特集するようで、執筆ラインナップに飴屋法水、三浦基、高橋幸宏らの名前が挙がっておりたのしみ。