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武装、スクリーン/ブソウ、

練習。
何の練習?
時間の配分、岡山芸術交流へいきたい。今年はかっちょいいコートを買いてえな。これだ! ってものはまだ見つかっていない。ねむい。荷ほどきをしたい。いまのしごとがおわったら、休みをもらって台湾にでもいこう。ああおれは願望でみたされてるんだと気づく。こんな制限された生活ではたくわえがすり減るばかりだ。何も生みだせねえ。スーパー8はいつでるんだ? 映画を撮る。プラクティス。ひとに何かを伝える、ひとに何かを教わる、人間は意識のはたらきの位置の自由さがますにつれて不自由な存在になっちまうんだ。

光らない街の舳先で

肉体が浪費され、感情が屈折するにしたがっておれの身体は音楽と食物と言葉を求める。爆音と、暴食と濫読である。濫読も一発変換できないクソIMEよ死ね。まいにち深夜に帰宅するから音楽が鳴らせない、帰り道、道路工事の爆音と、路上ミュージシャンのぬるい音楽、横断歩道を向こうから渡ってくる警察官、iPod的なものをそろそろ買い戻すべきか、大学時代に紛失/盗難されて以来音楽はライヴハウスと、レコ屋と、自室で聴くものになった。腹が減ってるのか減ってないのかわからんぐらいずっとはたらきづめ、いや仕事はたのしいんだがそんなスタイルで生きていたくはない、おれは自炊したい合羽橋で包丁やまな板や鉄パンなどを買って、将来は飲食にも関わりたいのだ、わたしたちのオルタナティブスペース、何がオルタナ、何に対しての、まいにちちゃんと自分の味で育ちたい、コンビニ飯にさよなら告げたい。文字が読みたい、文字を放ちたい、いま読むべきなのはリンギスとかだってあたまがビンビン、『記号と機械』めっちゃおもしろいし、論理をつみかさねていくために本を読むんだ、物語とはべつのところで、おれはちぎれる、トーキョーライツ、トーキョーライツ。

アジアの唇(ひとつの移転)

ふた月連続で詩を投稿し損ねている。〆切日間際がクソいそがしいのが主な理由だが、それにしたってどん詰まりの気配を感じざるをえない。小説を書くぞとか意気込んでもいたのだが、そちらもすすんでいない。リソースはすべて仕事に割いている。いまの仕事はめっちゃおもしろい。最初の一冊にして、代表作、って感じの本がでるだろう。編集者ってこれだ! って日々を過ごしている。日をまたいで家に帰る日がつづいているけれど、やりがいの方がいまは勝っている。スパルタ。とはいってもまいにちこんな時間に帰っていると頭がイカれそうになるのはたしかだ。

上のはなしとはべつに、印刷物をつくりたいんだなおれは。卒展でつくったペーパーの文字組やコミティアに参加してた頃の制作物のたぐいをみてたらZINE熱がちりちりとバーニング、バーニング。個人で雑誌つくれる体制を来年には整えようね。

事後的な了解を共通の敷布団として

何かに対峙したときのわからなさが、のちのちにすんなりと理解できる。この積み重ねが成長ということで、ぼくの敬愛する廣瀬純が「毎日毎日すこしずつ賢くなってってるんですよ」(http://radiumcity2015.tumblr.com/post/124215846260/%E5%BB%A3%E7%80%AC%E7%B4%94%E3%81%95%E3%82%93-%E3%83%88%E3%83%BC%E3%82%AF%E3%83%AC%E3%83%9D%E3%83%BC%E3%83%88-20150523)というような感覚をもちつづけることで、ひとはだいぶおもしろい姿勢で日々の生活を過ごすことができるんじゃないかと思う。そういう点でいえば、人間はずっと成長しつづけるいきものだというエリクソンの発達段階的な考えはひとつの指針として役に立つ(彼は老年期にその発達が止まるというが、死ぬまで前進しつづける気概があった方がいいんじゃないかと考える、70代とかになってもいきいきしてるひとっていいなー、すげーな、こうありたいなって、しおしおした老後とかつまんねーだろーなーって、20代半ばのぼくは思ってるんです)。

復刊したスタジオボイスのユース感ってめっちゃいいなって最新号でるたびうなっている。毎号誤字脱字があるのもなんかいいなって(ほんとか? 笑)。就活時にエントリーシートだせばよかったなっても思うんだけれど、場がちがえどもマインドは同じだぜみたいな、そんなきもちで日々サバイブしてます、90年代生まれとして。

あわだつ脳の飛行形態(分有からの離脱)

隣に座った男の所作がいちいち雑であるということだけでおれの殺意はふくれあがっていく、おそらく知的障害者、そんなレッテルに左右されるな、怒りの理由付けをまちがえるな、電車を乗り換える際にその姿を見つめたがおそらく健常者、そんなレッテルに左右されるな、スペース、それぞれのスペース、わたしの思考は狭くなる、なにもこたえない、なにもうごかない。

おまえの背中にかいてある「HASEBE」の文字が「WASABI」にみえる。今日はワールドカップ予選の日だ。対面に座ったユニフォーム姿のカップルにしたしげに喋りかけるおっさんだけが救いだった。踏切のまえで祈る男の背中にはなにも書かれていなかった。

整頓されないものだけがコミュニケートできる

引越しのじゅんびをしている。ものを捨てられないにんげんなのでとてもたいへんだ。積み本をぱらぱらめくっているといつのまにか深夜になっており、小腹がすくので笹かまなどを食べている。この積み本というのはほんとうにやっかいで、どの塔(積み重なったブックタワーを指す)をくずしても読みたい本しかないのである。きのうはイットガール特集のギンザと、ミヒャエル・ハネケの映画術を読んでいた。ハネケやっぱりだいすきだ。いちばんすきな映画監督はだれかときかれたら、いまのおれはミヒャエル・ハネケとこたえるだろう。タイトルからしてヤバい次回作『ハッピーエンド』の公開が待ち遠しすぎる。観ていない過去作を公開までには観ようと思っている。『カフカの「城」』と『タイム・オブ・ザ・ウルフ』である。もちろん観たことのない作品というのはあくまで劇場公開用長篇作品のなかでというごく限られた範囲内の話であり、初期のテレビ用につくられたものなんかもどうにかして観る機会が得られればいいなとおもっている。

脳がいたい。腹がへった。家がとおい。さいきんはほしい本が続々と刊行されているのだけれど、引越しまえにこれ以上ものを増やしたくない。とくに斉藤斎藤『人の道、死ぬと町』をはやく読みたい。

百日単位のフェアトレード

『オーバー・フェンス』を観た。山下敦弘の作品は『マイ・バック・ページ』ぶり(音がちいさすぎて何いってるかわからんまま観ていたので内容はぜんぜんおぼえていない、もやのかかったようなオフィスの空気感だけをおぼえている)? 90~00年代邦画的湿度感を踏襲しながら、その先をひらこうとしていく感じがいまっぽくてよかった(扉はあいている、窓もあいている)。地方都市のかかえる閉塞と、そこに対応する、徹底的なひとへのフォーカスをつらぬきとおす画づくり。外を、廻りを、映さない。だのに、古くささ、ダサさがほとんどない。自転車ふたり乗りのシーンや、船上での会話シーンなどの、ちかしさにも、遠さにもなる「狭さ」がよかった。

前者を観ていて想起したのはヨアキム・トリアー『オスロ、8月31日』の消火器の煙を放出しながら自転車ふたり乗りをするシーンで、それと同じようにうしろから撮ったら飛び散っていく羽毛がきれいだろうなとかそんなこと思ってたんだけど、そういう逸脱をゆるさない緻密さに観おわってからしびれた。どちらもトレイラーに使われていたので見比べてみてください。下に張っておきます。ちなみにヨアキムの新作が『母の残像』というタイトルで11月に公開されるのでそれも張ります。原題は『Louder Than Bombs』。スミス?(ちゃんと聴いたことはない



[『オーバー・フェンス』トレイラー]


[『オスロ、8月31日』トレイラー]


[『母の残像』トレイラー]

あ、映画といえばこないだ牧野貴の作品を映画館で観ました。いわゆる実験映像ですが、スクリーンに映る映像と、自分の記憶との照らし合わせ、音の有無と眠気みたいなことを考えながら観て/寝ていましたが、それを踏まえてのトークがおもしろかった。まだまだ話を聞いていたかった。観客がほとんど映像業界のひとって感じでもったいなかった(ロビーに座っていたら、鈴木志郎康という単語が聞こえたのはおもしろかった)。詩もそうだけど、もっとひらけていければなと思う。