目の前の前から前側に背ける

3連休が壊滅したのだが、ふしぎとストレスがない(疲労はある)。しごとの内容におれは左右されている。自身に責任を置くことができ、これからにつながる予感があるワーク。どこを走っているのかわからないまま走らされる苦痛がない。考えかたが日々ぶつかり、積み重なった時間と衝突してばかりいるが、飛ぶ火花はいつかの火種になるはずだ。

こんなことばかり書いているのはよくないと思っている。

連休最終日はしごとがえりに角川シネマ新宿で『コロニア』、新宿Motionで余命百年、トリプルファイヤー、SuiseiNoboAzのスリーマンを観た。エマ・ワトソンがかわいかった。話は『サウルの息子』×『マーサ・マーシー・メイ・マーリーン』みたいな(ずいぶん暴力的なまとめかただ)。脱出ものはどうしてこんなにドキドキするのだろうね。わりとたのしんで観ていましたがなぞのズームアップと寄りのショットによるハリウッド感(メジャー感?)は好みでなかったね。それにしても反体制マインドには心おどるし心ゆさぶられる。パトリシオ・グスマンの作品をいくつか観ていたために時代背景はなんとなくわかる。『チリの闘い』もはやく観にいきたい。ゲバラしかり南米は魅力的だ(おれが小学生の頃いちばん好きだった国はエクアドルで、好みの国を調べて発表する授業のときに先生がどうしてこの国を選んだのと質問してきたことを思いだす/「エクアドル」は赤道を意味する)。

ライヴもぐっどなイベントだった。3バンドとも観るのは2~3年ぶりくらいで、観客を殺す勢いで殺伐としていた余命が南国育ちの野生児によるサイケなドリームポップみたいな感じに変化していたり、メンバー変わってどんな風になったのかちょっと心配だったボアズも相変わらずの音圧と金属的なカッコよさを発揮していてめちゃ満足だった。トリプルファイヤーも演奏、MCともにキレキレで、なんども歓声をあげてしまった。

木曜日は政治的な話をきいて、キムチうどんを食べたりした。もしかするとおれは話すことが足りてないかもしれない。ゆえに文字を書くのだね。

いま健康になって海辺に打ち捨てられる

搾取と経験のバランスが社会人として生きるうえでの指標だろうか。社会人というよりも組織人としてかな。ヤフーニュースの労働関係(に限らずだけれど)のコメント欄みてるとかなしくなってくる。みんなどれだけ奴隷根性なんだ。いま乗ってるこのシーソーのかたむきを感じながら飛び立つことばかり想像している。上で使った「社会人」とか「組織人」とかいう言葉、むかつくな。なりたくねーよそんなもん。

さいきんアゴタ・クリストフの初期三部作を読み終えた。『悪童日記』『ふたりの証拠』『第三の嘘』。いやーほんともうよかったね。誰にでもすすめたくなる。とりあえず最初の『悪童日記』だけでよいからさ! 読んでくれ! 第二次世界大戦期のヨーロッパをしたたかに、たくましく生きる悪童! そっけない文体に支えられたかなしみのドラマが、ゴツゴツした感じで躊躇なくぶつかってくるんだけれど、重さがないからすいすい読める。ひとの死の薄さが、靄のように本のなかを流れていて、その堆積がじわじわと効いてくる。あっさりした性描写なのにえっちい感じがするのもよい。ここで引用とかすればいいんだけれどいま手元にないのであきらめる。

シン・ゴジラ』めちゃおもしろかった。『昔々日本』まあまあよかった。もう眠くてあたまがまわらない。

書き留められた悪意の所在について

わからないことが多い。わかるひとたちはたいへんだと思う。わからないわたしに対峙する点において。納得できるところに着地するためにわたしは言葉を費やすが、埃のかぶった時間の層をうらがえすのにもたいへんな労力がいる。とはいえ、わからないままにしておくことに耐えられるほどわたしの骨はやわらかくないのだった。社会とのあいだに起きる軋轢が、あたらしいひとたちの、あたらしいコードとなって点灯していくことを想像する。けっして健康ではない書き換えのしかたで、ぼくらは生きのびることを選択するだろう。

さいきん好きなものを観返して自分を取り戻すことをしている。『ドッグヴィル』や『籠の中の乙女』など。どちらも犬だった(籠の中の乙女は原題が『Kynodontas』= dogtooth = 犬歯だ)。犬が飼いたいな。犬を飼いたいな。犬、犬、銀牙シリーズがすきだよ。赤目とかカマキリとかいろいろすきだよ。飼うとしたらシェルティがいい。シェットランドシープドッグである。

先日実家へ帰った。わたしがここでも取り戻される。帰った当日にアイスを買ったのだが、いまになってそれを食べずに冷凍庫にしまったままなことに気づいた。ハーゲンダッツ……。

倫理的に生きる、誠実に生きることのむつかしさについて考えること。傷つかない/つけあわないための器用さよりも、傷にふれる/ふれあうための繊細さを大事にしたい。

自分を確かに通りすぎたきもちを覚えていない

勝手にあなたのためを思われる。あなたのためを思って、は欺瞞である。自分がいちばん自分のことを思っている。でも、あなたのためを思うのは勝手である。わたしはわたしのことを思っている。自分に自分を背負わせる。わたしはわたしを思いながら、あなたはわたしを思うかもしれない。その思いはわたしを通って、けっきょくあなたにたどりつく。その回路よりも、わたしはわたしを通してあなたにたどりつきたい。そのちがい。

利己主義が好きだ。究極的な利己主義はぜったい利他になると思っている。でもこれって新自由主義的? 主義主義うるせー、にんげんは主義なんかにとどまれるほどつよくねー、でも主義はつよい支えになるだろ。佐々木ユキ主義みたいなのがちょうどいいんだ。みんなも観よう、福間健二『あるいは佐々木ユキ』。新作がこの秋公開されるのでそれも観よう。

ちかぢかおれは引っ越すだろう。神奈川県から東京都へ引っ越すだろう。そしたらホームパーティをやる。おれはおいしい料理をつくり、みんなでそれをたべる。みんなは酒をもちより、へべれけになる。新品の安いレコードプレイヤーからはいい感じのインディーミュージックがながれる。ひとりがおもむろにたちあがり、おどりだす。みんなはわらいながらからだをゆらしはじめる。きょうはじめて会ったひとどうしが、つつましいおしゃべりをしている。煙草を吸うために部屋をでたおとこは、誰よりもはやく初雪に気づく。いま駅ついたー、とスマートフォンの画面がひかる。わたしたちはしろい息をはずませながら、とてもささやかな行進をはじめる。

ゲームしない、ゲインする

カルカソンヌの一夜』を読んだ。哲学者シモーヌ・ヴェイユと、詩人ジョー・ブスケが邂逅した夜のこと、それからその後に交わされた5通の書簡についての考察。ブスケの唯一の邦訳書『傷と出来事』は一昨年に読んでおおきな感銘を受けた本なので本作も読んだのだけれど、論文的であまりおもしろくなかったかなあ。ヴェイユのことをもっとしっていたのならたのしめるのかな(ヴェイユに対する興味は芽生えた)。ベッドに寝たきりのまま、女をとっかえひっかえ部屋によく呼び寄せていたブスケはちょうどいま(と書いてから数ヵ月経ってしまった……)話題の「乙武さん」的な感じだなと思った(思/詩想的にはまったくちがうけれど)。

論文といえばこれもめちゃ前に読みおえた本だけれど、ナタリー・サルトゥ=ラジュの『借りの哲学』はそつなくまとまった卒論みたいな感じで読みやすかった。何度も同じ意味の文章を繰り返す感じとか、強引な飛躍とかもあってたのしい。さいきん宗教の本を読むことがふえていて、この本でもキリスト教のイエスに対する負債の論理などがおもしろかった。ヴェニスの商人とかこれ読んではじめて話の筋をしったよ。

いまは井筒俊彦を読んでいる。『イスラーム文化』→『意識と本質』という流れ。おもしろい。仏教、ヒンドゥーイスラームのものの見かたに刺激を受ける。読みおえたらまた何か書くだろう。エッセイ集たかいけどほしいな。この流れでちかぢかモスクにいこうと思っている。カンドゥーラ(アラブ人が着ているまっしろいローブみたいなやつ)がほしい。イエジー・スコリモフスキ『エッセンシャル・キリング』のヴィンセント・ギャロかっこよかったなーとカンドゥーラのことを考えるたびに思う。『イレブン・ミニッツ』も観にいく。こう人文系の本を読んでいると大学時代もっと勉強しておけばよかった、という考えがあたまをよぎることがあるけれども、それは幻想でしかないと思うし、じっさい勉強していたとしてもべつにいまが「よく」はなってないだろう。時間の流れ、を気にしているのか? 天皇制は時間を支配しているって、いわれてみればそうだよなって思った。死んだら年号かわるのだものね。網野善彦とかをひろい読みしながら、だらだら考えている(何を?

しおれた蛇たちの囲む若い半島で

ホステスクラブオールナイターにいった。人生初のサマソニだ。これがうわさの都市型フェスってやつか! ダイナソーを途中で抜けてのぞきにいったジョン・グラントがとにかくアメイジングだった。Tシャツ買いそびれてかなしい。CDはきょう買った。いま聴いている。GMF、めちゃいい。

ホステスはムームがでた回以来にどめだ。アニコレさいしょからいかずにサヴェージズ最後まで観とけばよかったなってのも心残り。けっしてアニコレがわるかったわけではなく、なんかキレキレでかっちょよかったんだよサヴェージズ、2曲くらいしか観れてないけれども。『エクス・マキナ』でもエンディングやっていたね。アニコレのSEがアノーニで、リアーナしか浮かんでこなくて「これリアーナですよ」っていっしょに来ていたひとらに連呼していて恥ずかしかった。

さいきんはビリヤニ食いたい欲がやばい。しばらくまえにたべた中目黒のセイロンインのビリヤニと煮干しのサラダおいしかったなあ。アラクというお酒をラッシーで割ったものもとても飲みやすくて何杯でもいけそうな感じだった。スパイスはサイコーだ。おれはカルダモンとコリアンダーがすきだ。クローブはちょっと苦手な香りがする。玉川学園前のデリーマハルでたべたタマリンドのきいたバターチキンカレーもまたたべたい。下北沢のヤングも、新百合ヶ丘チェリーブロッサムも。ああ、カレー。アイラブカレー。カレーを食いたい。いまは福島の梨を食べているうまい。いつか牛タンをまるごと一本そのまま食うのが夢なんだ。

そこにふくまれない氷を置いておく

だいぶ鬱ぎみな気がする。気落ちがはげしい。きょう(8/5)は『シリア・モナムール』を観た。いまのシリアを撮った作品だ。重たい。とても重たい。映画を撮る。映画をつくる。映画を撮ろう。それが希望になる。ものをつくる。はげます。はげまされる。父の言葉を話す息子の想像力につよく胸を打たれた。帰りの電車では、映画を故郷と呼ぶメカスのことを思ったりした。

ドキュメンタリーといえば6月に観た森達也の『FAKE』もすばらしくよかった。すっかり感動させられてしまう自分がいて、わたしはいまメディアに翻弄されているという自覚をうながしてくれる。言葉を話させる、インタビューとカメラの機能のおもしろさ。愛の物語、偽りなし。ドキュメンタリストとジャーナリストはちがう生きものである。

映画、映画の話。先月は1本も観ていない。映画館に通うようになったのは2012年からなのだが、月間映画鑑賞本数0ははじめてのことである。あとから気づいてショックを受けた。今月は『シリア~』のほかにも『ヒップスター』を観たり、大学卒業以来の撮影の現場にいったりしている。前者は同じ監督では『ショート・ターム』の方が好きだけれど、家族や友人といったちいさな世界のことをていねいに綴る姿勢や、感情をゆさぶるシーンの描きかたにはにまにましたり、涙を流したりした。後者はデジタルでなく16ミリフィルムの撮影で、わくわくした。コダックから今秋スーパー8がリボーンされるが、発売したら買って映像を撮るよ。

こないだ代官山ユニットで観たミヒャエル・ローターのマラソン感あるミニマルさをたまに思いだすお盆を過ごしています。