われわれの共通言語が目を腫らしている

制作のモチベが無。チャリにエネルギーが吸いとられている。bon vacationということにしておく。

いつか枝分かれしたわたしがすすまなかったほうの支流から、わたしを見ること。

デパプリ23話。キャオ?!とここねパパの声を聞いて思ったが、ちがった。中野泰佑、めちゃくちゃ大塚芳忠みのある声だった。今回はふわ一家を軸に、大人が子供にかける「呪い」のエピソード。自分にも思い当たる節があるので、そうなんだよな、と観ていた。「親戚」の不躾さ。子供は幼いときに言われた言葉をおぼえているものだ。「親心」の反映として、部下のことを「ずっと気にかけている」ゴーダッツさまにデレる二幹部のかわいさも見どころ。そしてチビここねのかわいさのヤバさ。家族での食事場面のギクシャクした感じをあらわすテンポ感、カット割が冴えていた(ここねパパの組み足カットのインサート!)。

バイス48話。デパプリ同様こちらも「親心」がつよく流れていた。ヒロミをつかったギャグ演出の「浮かれ」はバランスがわるいと思ってしまった。次回予告の流れも含めて、なんだか予定調和感がある。おわりの和数がわかっているというのも影響しているのだろうか?

ドンブラ24話。タロウを自分の子供だと思いこむ母親が登場。またまた親心の話がつづく。ドンロボゴクウが戦術に分裂を組みこむことで2回変身バンクが流れるのがおもしろかった。

ブックオフで本を買う。雨宮まみ舞城王太郎川上弘美など。山中恒の『おれがあいつであいつがおれで』が110円棚にあり、なつかしいきもちがそれも手にとらせた。こうした児童文学あるいは世界文学全集がわたしの読書体験の基層にある。小学生の頃に図書室で読んだ本はいつかすべて買いあつめたい、できれば母校に行って棚や図書カードも確認したい、読んだ本のタイトルをわたしはすべておぼえているわけではないので、、

青錆だらけだった眼鏡のノーズパッドも眼鏡屋に行って交換。テンプルまで調整してもらい、ありがたいきもちになる。ただ店員との意思疎通がむつかしかった。「大丈夫」という語がどこにかかっているのかわからない事例。なおさなくても大丈夫の意でとらえてしまった。

夜、夕顔と鶏のオイスター豆鼓醤炒め、夕顔のミルク味噌スープ、素揚げ茄子のおひたし。うまい。夕顔を切断する過程で親指の爪と肉のあいだを裂いてしまった。痛い。

食事どき、テレビではコミケの現地取材が流れていて、そこににごりりのリリアの、正確にはリリアがリリエルのコスをしている状態のコスプレイヤーが映しだされていて、その構造の入り組みかたに感心したりした。コスプレを題材にした漫画の、作中作のキャラクターのコスをするキャラのコスをすること。ビッグサイトは作品の聖地でもあるわけで、つよい動機づけが作品自体に折りこまれていると思った。



515


夢、わたしのかたわらには〈象徴〉がおり、そしてわたしはだれかとバディを組んでその〈象徴〉を斃す使命があり、しかしわたしの腕と〈象徴〉である彼の腕は何らかの式典の見せ物としてそこにかたく組まれパレードをしており、そこにあるなまの肉体と触れあうことが、その実在性をはっきりとわたしに感じさせ、いざ、という場面で「無理だ、殺せない」とバディに泣き言を言ったところでめざめた。式典の直前、彼と腕を組む前の状態から気が動転しており、わたしはぐるぐると縦になんども回転してまわりのひとたちに押さえつけられていた(夢のなかなので物理法則がみだれている)。天啓のようなものを感じる。

山中恒おれがあいつであいつがおれで』、いま読んでもおもしろかった。「オスガキ(メスガキ)」「チンポコ」といったひと昔(?)前の小学生男児的ワードが飛び交う、声をだしてわらってしまうほどのコミカルさをもった男女入れ替わりものの決定版。解説を書いている大林宣彦がこれを原作に撮った『転校生』、以前Tさんからもすすめられてメモっており、観たいと思っているのだがユーネクストにはリメイク版しかない。どうせならオリジナル版をまず観たいよな。

「バカヤロ! みっともねえじゃんか! いいかげんに、泣くのをやめねえかよ!」
 すると、ソファで泣いていた、おれが、立ちあがった。いや! ここのところが、むずかしくて、ややこしいのだ。つまり、おれになった一美が、立ちあがったのだ。そして、いきなり、おれに……つまり、一美になったおれに、とびついて来て、いいやがった。
「ああ、あたしだわ! あたしだわ! 一美の一美だわ!」
 おれは、さむけがした。オスガキの声で、
「ああ、あたしだわ! あたしだわ……」なんていわれて、なぜくりまわされたら、へんなもんだ」
 おれは、一美を……、いや、一夫になった一美をつきとばした。
 すると、おれは、どなられた。
「一美! らんぼうはよしなさい!」
 みると、一美のおふくろだった。幼稚園のときに会って以来だから、六年ぶりだけど、一美のおふくろは、あまりかわっていなかった。
「あ、おばさん、しばらくでした。お元気ですか? ああ、おばさんは、うちのおふくろにくらべてみると、かわってないなあ。うちのおふくろときたら、ずいぶん、デブになりましたよ。」
 おれは、にこにこして、あいさつをした。とたんに、一美のおふくろは、宙をとぶようないきおいで、すっとんで来ると、いやというほど、おれのほっぺたをはりとばした。

入れ替わってはじめて「自分」と対面したシーン、「ややこし」さがそのままダイレクトにおもしろさにつながるすばらしい展開と描写。「おれは目をつぶって、おそるおそる、手を下半身へずらしていき、パンティーの中へいれた。/「グワーッ! ない! ない! ないっ!」/とんでもないことになった。おれのだいじな、チンポコが、なくなってしまったのだ」というような勢いのある語り口だけでなく、親や兄弟、友人たちをまわりに配するシチュエーションの設定がうまい。ひらがなと句読点の多用は児童向けに書かれている(掲載誌は「小6時代」)がためというのもあるが、語り手の性格がその読点に宿っているわけでもあって、いいアクセントになっている(書き写していると「おじさん構文」みたいでイライラしたが、書籍で読むぶんには気にならなかった)。

上で触れたように下品なワードが数多く登場する本作だが、一方で以下のような視点の導入も抜かりなくおこなわれている。もとのすがたにもどれないかもしれないという事実に突きあたった一夫の述懐シーン。

 それに、おれはひと夏の経験で、こりごりしてしまったのだ。女の子というものは、ものすごく不便だ。いつでもからだを清潔にしていなくちゃならない。パンツいっちょでひっくりかえっているわけにはいかない。月に一度は神妙にしていなくちゃならないときがある。しょっちゅうヘアブラシをかけなくちゃいけない。やたらに台所の仕事をさせられる。やたらに行儀よくしなさいといわれる。やたらに愛想をよくしろといわれる。それにふと気がつくと、いつも男どもにじろじろ見られている。

執筆当時(1979年)の日本がいまの日本とどうちがってどう同じだったかはしらないが、少なくともここで書かれているジェンダー規範はいまだにつよくひとを縛っているだろう。その秩序に裂け目を入れる方法として、「おれがあいつであいつがおれで」という思考/想像力はおおきく役立つだろう。嵐のような速度でフィナーレを迎える12章「おれがおれならあいつはあいつに」の、清々しい鮮烈さも忘れがたい印象をおぼえた(読みかえすまですっかり忘れていたが!)。