人生はすごくさびしい

生きかたの理想がある。将来は何になりたい?と大人たちは子供に聞くが、いまのわたしは「何」よりも「どう」のほうに関心が向いている。自己啓発本みたいでいやな言葉の用いかただ。whatよりもhow。書いていてうるせえ、しゃらくせえとなる。だが、10代の頃に抱いていた「夢」の職業に就き、その「何」になった身からすると、それが「どのように」生きられるかこそが「何」の中身でもあるのだといまさらながら思っている。

こんな風に生きたい、の「こんな」に含まれるものが、以前よりも具体的なかたちを得てきたと実感している。さいしょの緊急事態宣言のころ、在宅勤務の時期に滝口悠生『やがて忘れる過程の途中』を読んだことが、その下地をつくっていると思う。杉田俊介が読みたい。おそらく絶版となっている『無能力批評』、文庫化されないだろうか。

国保の払込票の期をひとつまちがえていたことに気づき、祖母の不要契約の解約手続きがてら支払いそこねたほうを入金しに行く。先に払ったものもどうせ徴収される金ではあるが、なんとなく損した気分になる。税のことを考えると心底憂鬱になる。

何かに追われている感覚とはつまり、世間のつくりだす「規範」がもたらすものであって、そんなところからはできれば外れていたい。だが、はみだしてばかりいれば「社会生活」はたちいかなくなるのが現状である。こぼれ落ちながらも、野垂れ死なない技術を身につけたい。

夜、鶏の唐揚げネギ塩ダレ付き、白菜と大根葉の味噌汁。鶏はにんにくしょうが酒醤油かつお節に漬け、たれはねぎに塩酒片栗粉鶏ガラ粉末を加えて熱し、錬成。うまい。口内をがっつりと火傷する。

ノア・バームバック『ヤング・アダルト・ニューヨーク』(2014)。原題は『While We're Young』。直訳すれば「若いうちに」。ドキュメンタリー映画製作の周辺に身を置く40代半ばの夫婦と20代半ばの夫婦の「交流」が描かれるわけだが、そのあいだの年齢であるわたしにとってはあまりピンとくる内容ではなかった。いや、わかる!となるシーンはふんだんにあって、クスクスわらいながら観ていたのだが、実感としてどちらの側にもうまく入りこめなかった。ここでしているのは共感ベースの話で、べつに共感などなくとも好きになったりすぐれていると思ったりする映画はたくさんあるのだから、そんな話はしなくてもいいのだが、とにかくあまりよくなかったという印象がのこった。『フランシス・ハ』や『マリッジ・ストーリー』の刺さりかたに比べて、雲泥の差を感じた。レコードを収集する20代とサブスクを利用する40代、あるいはタイプライターを用いる20代とスマホに文字を打ちこむ40代など、世代間でアナログとデジタルへの志向が逆転しているさまを素早いカット割りで魅せていくシーンや、「子供」の有無が引き起こす同世代間の亀裂、かといって若さにもついていけない中年の悲哀といった見どころはあった。野心に燃える20代のジェイミー(アダム・ドライバー、大好き!)の、つねにカメラを回そうとするドキュメンタリストとしてのふるまいもよかった。

では、何がだめだったのか。主人公であるジョシュが自身も参画するジェイミーの撮っている映画の「やらせ」を暴き、それに対する批判をおこなうドラマが後半に展開されるが、その主張が受け入れられなかったのだった。「ドキュメンタリーは嘘をつく」という前提が共有化されていないドキュメンタリー映画作家を、「老いた」存在として見るよりも先に、「信じがたい」と思ってしまった。この拒絶感が、作品全体の印象にも作用して、「よくなかった」という感覚をわたしに植えつけた。いや、いちばんの問題は回線だか鯖の不調で途切れ途切れの再生になったことかもしれない。映画とは関係がない! 周縁的な話ばかりしている。

映画のなかで若さが悪魔として見なされるのは、バックホーンの「思春歌」における以下の歌詞を思いだした。

TVのニュース 大人が嘆いてた
近頃若者の犯罪が多いと

俺は知ってた 大人達は
嫉妬してる 凶暴な若さに

今後は「若者」のくくりからどんどん外れていくしかない自分の身を思うともっと身に迫ってくる映画だったのかもしれないが、どこか他人事として見つめてしまった。この映画における「まっとうさ」に興味をもてないことが、よくなかった印象のいちばんの理由なのかもしれない。


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カラーコンタクトをしているひとの顔が怖くてしかたがない。もう10年ちかくまえになるが、間近でカラコンをつけたひとと相対して以来、ずっとその恐怖が消えない。いまはそのときよりも数多くのひとがメイクの一種としてそれを用いており、SNSにきらめく無数の瞳は人為的に着色され、巨大化の一途をたどっている。そのことが、装着者が想定しているであろう、かわいさとむすびついてくれない。わたしと世界との乖離を感じる。この怖さはなんなんだろうか? ひとでないものへのあこがれをそこに感じる。これはカラコンを否定する言説ではない。

朝から夕までよくはたらく。今後やっていくもののなかに、わたしの郷土に関係するワークがあるのだが、ふしぎな縁を感じる。