固有名のはげしさ

ちほちほ『みやこまちクロニクル』18話、毎話そうだが、とてもいい。介護が必要となった老父の大便を拭くシーンが描かれていて、わたしも自身の祖母に対する経験をかさねて、しんみりと(?)したきもちになった。「正社員からドロップアウトした東北の実家暮らし」という境遇が、年齢がふたまわりほどちがうといってもわたしのこころによく刺さるのだった(この読むことで慰撫される感覚は、冬野梅子『まじめな会社員』にもあり、そのことはよく同人会議で話題になる。しかしこの構造はよくないのでは?という向きで話題に上る。それについてはまた機会をあらためて書く。誤解のないように書くが、同人のメンバーは『まじめ〜』も『みやこまち〜』もおもしろいおもしろいと読んでいる)。風景を描くことのつよさも感じる。おれはこのところ、風景を見ていない。雪の積もる光景に感動したが、それも家のなかから窓越しに見たに過ぎない。よくないことだと思う。

東京ショートステイの計画を考える。行くとなったらいろいろと詰めこみたくなってしまう。展示、映画、ショップとどう考えても想定している日程にはおさまらない予定を書きだす。あふれるものは、あふれればよい精神。主眼はべつのところにあるので。

雑務を片づけていると急激に眠気がおそってきて、そのまま身を横たえる。朝までよく眠る。

朝、鶏そぼろ丼両面目玉焼き添え。出勤前の妹にもつくる。しばらくして起きてきた祖母にもつくる。日々の夕食はわたしがつくっているが、朝食をつくることはあまりない。起きる時間がバラバラだからである。

ロバート・ベントンクレイマー、クレイマー』(1979)。原題は『Kramer vs. Kramer』。子供をどちらが引き取るかをめぐる離婚劇なので、夫と妻の苗字がたたかっているというわけだが、邦題ではたたかっておらず、あいだに読点を置いて並列させられているに過ぎない。いい変えかただと思った。クレイマーというひびきが「クレーマー」みたいなのもいい味をだしている。本作のなかで描かれている「仕事か家庭か」という問題は、2021年現在においてもおおきな問題であって、やれ働き方改革だのなんだのとお上が喧々諤々やっているが、「働き方」を変えようが「賃金」が上がらなければ「生活」は成り立たないのだからマジでしょうもないなと思っている。そもそも会社勤めだった頃、そんな「改革」は自分のもとには降りてこなかった。

話を映画にもどすと、家をでていった母親がもうここにはもどらないと書いた手紙を読み上げる父親に対して、それを聞いている子供がテレビ(カートゥーン)のボリュームを上げるシーンがめちゃくちゃによかった。自己防衛のための否認。この男の子が、父と同衾していた素っ裸の女に自宅の廊下で出会し、真っ先に「フライドチキンは好き?」と尋ねるのもかわいかった。「とても好きよ」という返答に対して、「僕もだよ」と同意することで、そこには共通のものが好きなひと同士のきずなが生まれる。関係性をつくっていくほほえましさとたくましさが描かれた名シーンだ。所作でいえば、父クレイマーが別離した母クレイマーと再会して息子を引き取りたいと切り出されるシーンで、テーブルの上でワイングラスをすばやく置きなおす芝居がひじょうによかった。数秒後には怒りのままに壁に叩きつけられる運命にあるグラスの、その位置の変動が、いらだちと動揺を的確にアクション化していた。はじめとおわりに配された、エレベータという上下運動および開閉運動をする機械の存在も、本作における重要な舞台装置である。


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夜、角煮。煮卵、大根、豆腐入り。いつにも増して下焼き、下茹でをしっかりやる。よく染みてうまい。家族全員の分量を考えると、肉はブロックひとつでは足りない。

祖母の不要契約の解約をすすめる。クソのような手数料はとられるが、多重加入していただけあってけっこうな額が返金されるようで、手続きをしてよかったねと顔を見合わせる。こうやって悪徳業者に騙されている全国の老人たちのことを思うとひじょうにかなしいきもちになる。老夫が法外な金額で物干し竿を買わされているニュースをせんじつ目にしたが、滅入る。老若間による階級闘争だ!という主張もわからなくもないが、そこで食い物になっているのはつねに弱者なのであって(あたまがまわればそんな契約などしない、しかしオレオレ詐欺における「数千万円」という額はまさに「階級」を指し示すものではないか?)、疑似科学・オカルト・スピリチュアルの世界における金のうごきと似ていると思った。非道だ。だれしもが抱く「救われたいきもち」を、都合のよいように利用するのはほんとうにサイテーのことだ。しかしこの感情のさざなみは、さまざまなスケールで経済をうごかす。ひとのコンプレックスにつけこむ電車内にはりだされた広告の数々を見れば、それがわかる。ひとは毛が生えたり抜けたりするだけでぜつぼうに陥り、あるいは救われてしまう。

作業をすすめている最中、祖母の誤りがあまりに頻出するのにいらだってしまい、大声を上げてしまう。ひどいことだと思う。ねむるまえ、ふとんのなかで反省する。冒頭の介護の話にもどるが、「他者へのやさしさ」は家族という社会のなかで育まれるものだと思う。ここでいう「家族」はべつに血がつながっていなくともよい。寝食をともにする彼や彼女が、わたしのこころやからだのつかいかたを教え、諭し、矯正するのだ。『クレイマー、クレイマー』で、おたがい新聞/雑誌を読みながら、ふたりテーブルを囲んでドーナツを食べる父と子のすがたを思いだす。