なんだかもうおひらきのムードで

アップルミュージックで流れてきた双葉双一の「割れもの」がめちゃくちゃいい。

デヴィッド・リンチツイン・ピークス』(1990-1991)1stシーズン最終7話をおわりまで。いや、おわらんやん!!というツッコミ。ええー!って声がでるほどのつぎへとひっぱるおわりかた。射撃がヘタクソのアンディがここぞというところでキメるところがよかった。シーズン2はそれなりにながいのでもっとのんびり観たい。

アジカンの25周年ライブ@Zepp Tokyoの配信。開幕フラッシュバック→未来の破片の流れだけで昇天した。ゴッチのワクワクした感じの手のうごきがかわいい。マイベストアジカンソングである無限グライダーの途中で配信が止まっておれの精神もおわった(アーカイブを観なおしてもなおっていなかった、、)。ていうかセトリがヤバすぎる。君という花のアウトロに大洋航路の歌詞を載せるアレンジヤバないか? 新世紀のラブソング→UCLA→或る街の群青の流れ、ヤバすぎる。ヤバイしか言えなくなるヤバさ。今を生きてでおわるかと思われた矢先に流れだす遥か彼方のベース、ヤバじゃん。ヤバじゃんの炸裂。とにかくヤバだった。マジサイコーアジカンラブジェネレイション。長年バンドをつづけてきて、いまがいちばんいいと言える状態をずっと更新しているのがすごい。今回のライヴもそうだが、直近の触れたい 確かめたいやエンパシー、フラワーズを聴いていてそう思う。

上記のアーカイブをbgmにしながら、インターネット上のテキストをめぐる。文学フリマに同人誌をだすようなオタク・サブカル・思想・批評のごっちゃになった大学生モラトリアム期間から生まれたよどみみたいなものを転々と読んでいく。そもそもわたしもいまだにそのぬかるみに半身を浸からせているようなにんげんなので、おもろいなあと思う。大学時代のサークルの感じをひとつの幻想郷として胸に抱いている節があるので、そうした営みを見ているとこみあげるものがある。おわってるなと思う。過去を懐かしみだしたらもうおわりである(というクリシェ自体もくずおれてボロボロになっているだろう)。「もうおわっている」この状態を、「立てなおす」のではなく、「組み替えて」どうにかしたいとぼんやり考える。時間だけはあるのだから、なんかやれよというきもちがすこし増える。カスのような奮起。

読んでいたもののなかでは、アニメやラノベカルチャーのなかで00年代は所属(スクールカースト)が問題とされ、10年代では能力(ネオリベラリズム-自己実現)が問題とされた、という見立てに興味を惹かれた。これはサークル文化が廃れていることとも呼応しているのではないか。わたしのカルチャー的ゆりかごとなった大学時代のサークルはわたしたちの代が卒業後ほどなくしてほろんだと伝え聞くし、その気配は在学中からすでにあった)。コロナがそのうごきに拍車をかけ、孤立化したひとびとはその孤独感を埋めるためにでかいインターネット=SNSに身をゆだねる。ただでさえ衰退の一途にあったちいさな中間共同体の居場所は、リアルからインターネットへ? しかしそれは代替物になり得ない

乗代雄介『十七八より』文庫化の報を見てよろこぶ。『皆のあらばしり』も早々に単行本となるようだ。と、わくわくしていたら『掠れうる星たちの実験』などというまったく予想だにしていなかった新刊までも出版されるとのこと。『ミック・エイヴォリーのアンダーパンツ』につづいて主にブログの記事をまとめた本のようで、阿佐美景子サーガの新作も入っているというのだから買わざるを得ない。表題作のテキストは東京行きのバスを待つあいだに書店で立ち読んだ気がする。


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フライヤーの告知ついでについつい見てしまっていたインスタの、おすすめ投稿のなかにたまにあらわれる文字列が「彼が好きなおつまみ」だの「夫がウンタラカンタラ(くわしい文言は忘れた)」だの「私作る人、僕食べる人」を地でいくもので、マジできもちわるいなと思った。家父長制を首肯する奴隷根性を内面化させるこうした言説を排出する「インスタグラマー」も、なんの疑問も持たずに、むしろ「彼」や「夫」によろこんでもらえるかもと思いながらそれらの投稿に「いいね」する主観性も、イカれている。そしてそのイカれた言語空間・イメージ空間を下支えするのがネオリベ的な価値観である。この世のすべてを資本の論理のもとに数値化し、数こそが絶対として「バズる」文法がメディアだけではなく、市政のひとびとの「つぶやき」にまで懐胎する。自己責任の時代において、それぞれが放つ言説は、自身に責任を負う割合が減っているのではないか? 「Twitter(「オタク」でも「おじさん」でもコード化されたものならなんでもいい)構文」に明け渡された個人の絶対感情……。わたしがかつて詩は本質的に全体主義を拒絶すると書いたのは、その抵抗として「詩」を考えているからである。

夜、クラムチャウダー。ベーコン、あさり、人参、じゃがいも、玉ねぎ。うまい。あさり入りのホワイトシチューだな、と思った。何がちがうのか、と調べると以下のような記事がでてきた。

housefoods.jp
へえと思った。

発作的なかなしみに発狂しそうになる。生活がズルズルしている。そのぬめったところで焦燥の火がチリチリする。

WEBアニメスタイル佐藤順一のロングインタビューを読む。話に上がるタイトルのほとんどを観たことがないが、それでもおもしろい。とくに魔法使いTai!を観てみたいと思った。ユンカース・カム・ヒアや、プリンセスチュチュカレイドスターもおもしろそう。同時代のもの≒新しいものを観たり読んだりすることにひどく情熱を燃やしていたわたしが、いつの間にかひと昔まえのものばかりに目を向けるようになっている。富野マラソンも、プリキュア映画マラソンも、リンチもウテナもこれもそうである。