誤入と倍出

富野由悠季機動戦士ガンダムZZ』23-26話。いつぶりだ?というくらいひさびさの富野作品マラソン再開(会)。14-22話に関してはここで何か書くこともしていなかったので、ここでまとめて書いておこうと思ったが、メモ書きがどこかへいってしまったので頓挫。23話、「なぜおれたちはたたかっているのか?」というビーチャの問いはデカい。24話、「似ている兄妹」という対比のストーリー。ほとんどメモされた文字がなく、ひさびさの視聴で眼が死んでいることがわかる。

ラソンといえばプリキュアも観なきゃなとU-NEXTの配信リストを見ると、10月末で配信終了の赤文字が多数の作品についており、あわてて数作品を立て続けに観る。ふりかえってみれば、9月は1本も映画を観ない月になっていた。

大塚隆史『映画 プリキュアオールスターズDX みんなともだちっ☆奇跡の全員大集合!』(2009)。プリキュアシリーズはじめてのクロスオーバー長篇作品*1。舞台はみなとみらいということで横浜にフィーチャーしており、そういえば15周年の展示もランドマークタワーでやっていたことを思いだす。霧で何も見えない展望台フロアで、等身大パネルをながめていた記憶。なぜか受付で外国人にまちがわれ、英語で案内された。そんななつかしい記憶ともに画面をながめていると、劇中の妖精会議でミラクルライトの説明がはじまり、こうした場面での工夫も見どころのひとつだなと思う。オープニング曲と同時に次々と助けに駆けつけるプリキュアたちのシーンはやはりテンションがブチアガる。とりわけ、ブラックとホワイトが登場する際の「部分見せ」演出のカッコよさは随一。変身シーンも山盛りで、子供たちはめちゃくちゃたのしいだろうなと思った(もちろん、大人のわたしもたのしい)。

全てを吸収し巨大化していく敵・フュージョンの「私に飲みこまれてひとつになるのだ」という台詞に象徴されるように、グローバリズムが作品テーマのひとつとなっていて、『プリキュアぴあ』をひもとくとプロデューサーの鷲尾天も「グローバル化」という語を用いてそのようなことを書いていた。「ひとつになれば、他人に責められて傷つくこともないし、自分を責めることもなくなる」。そうした主張に対し、「みんな同じ空の下にいる」ことは否定せずに、それぞれの「個性」を称揚し、「ちがうみんながそれぞれの力をもちあうからもっと大きな力になる」ことを説く。「考えかたも感じかたもちがう」人々と出会うことによって、人は変わり、成長することができる。フュージョンが「バラバラでくだらない個性」と呼びあらわす〈差異〉こそが、「ひとつになる」ための条件だとプリキュアは突きつける。反グローバリズムナショナリズムとむすびつきやすいものだが、ここではその轍を踏まないことが目指されているように思った。その実態はさておき、ソ連プロパガンダ映像のなかで、スターリンがさまざまな民族の人々と抱擁するすがたが浮かんだ。

本作における(反)グローバリズムという点を考える上で、ボロボロになったプリキュアたちがふたたび立ち上がる際に支えにするものが「タコカフェの」たこ焼きだったり、「PANPAKAパンの」チョココロネだということは特筆に値する。これらは単にそれぞれの作品同士をつなぐギミックとして召喚されているわけではない。ここでは、その記名性が、グローバリズムに対抗するものとして掲げられているのだ。世界中どこに行っても同じ商品のならぶ画一的な巨大チェーンではなく、〈この場所にしかないこの商品をこのお店〉で選ぶこと。インディペンデントな固有性への愛は、グローバル化に抵抗するための原動力になる。だが、これは米国第一主義の「Make America Great Again」と紙一重の精神性でもある。愛情は、その裏手で排外主義の陥穽をつくりだすのだ。また、本作がグローバル化に対抗するものとして提唱する〈差異〉──これは本作で集合を果たしたそれぞれのプリキュア(作品)の喩えでもある──は、皮肉にも資本主義=グローバリゼーションを加速させる要因のひとつでもある。すべてを交換可能にする資本主義社会においては、ちがいこそが、利潤を生みだす。この逃げ道のない隘路のなかで、いかにしてよりよい世界を志向するのか。本作はそのことを考えるきっかけになりうるだろう。

志水淳児『映画 フレッシュプリキュア! おもちゃの国は秘密がいっぱい!?』(2009)。巷では『トイ・ストーリー3』に先駆けて忘れ去られたおもちゃの話を描いたとのことだが、ざんねんながらそっちを観ていないのだった。明るい音楽とシーンの合間に、おもちゃが次々に消えていく画を入れていく演出がひじょうにキレている。危機が迫る前の、ラブたちが家事をするシーンも、正面ではなく引きの鳥瞰で背中をとらえていて印象深い。幼い頃に大事にしていたぬいぐるみのウサピョンが、恨みをもったおもちゃの集合体となった敵ボス・トイマジンに一体化しているのを見、戦意喪失してしまったラブに気合注入のビンタをする美希たんも衝撃的。「いまのあなたは誰? 桃園ラブじゃない。キュアピーチでしょ!」。プリキュア倫理。ここでは桃園ラブという個人よりも、プリキュアという大義のほうがおおきく描かれている。これが逆転したのが『ヒーリングっどプリキュア』42話である。

ただ、決着のつけかたとしての、いっときのおもちゃを大事にするきもちによって捨てられてしまったおもちゃは救われるのか?というのは気になった。ミラクルライトを掲げる観客も含めた「みんなのハート」、「おもちゃを愛する心」があつまることによって輝きを放ったプリキュアの光が、かつての楽しかった思い出の再認識を促す「あのときと同じ光」として怨恨をもったおもちゃたちを浄化させていたが、まさにその明るさこそが、彼らの憎しみや絶望を生みだす根拠となっていたのではなかったか? あんなに一緒に遊んだ子供たちが、まったく見向きもしなくなってしまったことのかなしみ。その嘆きは、子供たちとともにあった時間の濃度によってかたちづくられていたはずだ。浄化され、テディベアとなったトイマジンはもとの持ち主とはべつの子供の手に渡って退場するが、そこには新たなたのしい日々の予感だけではなく、ふたたび見捨てられてしまう可能性も残されているように思えた。


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昼、納豆チーズかつぶしホットサンド。からしをマシマシにしたほうがおいしかった気がする。

夜、とんかつ。パン粉の代わりにくだいたクラッカー。ガリガリしていてこれはこれでうまい。が、「とんかつ」というよりも「カツ」という感じになる。このニュアンスのちがいを共有できるひとは、幸いである。ソースがなかったので、酒醤油砂糖ケチャップおろしにんにくなどを煮詰めて代用品をつくる。デミグラスソースみたくなる。

いま明確にSNSから離脱の姿勢をとっていて、たしかにそのぶん読んだり観たり書いたりつくったりに時間をつかうことができている気がするが、それは飽くまでも「気がする」レベルの変化に過ぎず、そもそもスマホ自体から距離を取ったほうがいいと己を叱咤している。叱咤して節度が守られるくらいならここまで苦労していないし悩んでいないしわざわざここにこんなことを書かない。矯正視力〇.六のおれたちは、携帯電話を破壊してようやく世界とつながるのだ。

Forever Love/親愛なるQに捧ぐのスプリットEP『モノ・Ray・居る』、わたしが病に臥せりながらパシャパシャとシャッターを押していたとき、幾度も家のなかでつま弾かれ、口ずさまれていた音楽がいまこうして林檎印のロスレス圧縮によってふたたび鼓膜をゆらす。春の風がそこに吹き、小春の日和のふしぎさに触れる。掉尾を飾る「にごりえ」の「コラは駆ける コラと駆ける声が空を飛ぶ」というフレーズ、つまりは〈コエカタマリン〉によってかたちを得た叱りつける声に乗って、屋根伝いに飛んでゆく眼鏡をかけた少年の残像がそこに瞬き、のちにバックで鳴りはじめるモコモコミョンミョンとしたサウンドが『ドラえもん4 のび太と月の王国』の想い出をつれてやってくる。わたしが生まれてはじめて買ってもらったゲームソフトである。スーパーファミコン。1995年発売。定価9500円。

*1:短篇作品としては『ちょ〜短編 プリキュアオールスターズ GoGoドリームライブ』が2008年に公開されている