臭気とデンドロ、とてちんしゃん

鶏ももとにんじんに塩胡椒をふり、赤ワインと醤油を煮詰めて朝食。コンロから炎を立てていると、妹が火事になるぞと蔑視の眼でこちらを見ている。肉をひと切れやると大人しくなった。跳ねた油を拭く過程で親指をやけどし、ティッシュにくるんだ氷を患部に当てて大事に至りませんようにと祈る。

インターネットうろうろののち、餃子のタネを豆腐ハンバーグにアレンジしたものをオンザライスして妹の昼食をつくり、グラフィックコンペのサーチをおこなう。よさそうと思うものがあっても、フィジカルを送ってねのパターンも多く、「刷るからには印刷にもリキを入れたくなる=コストがかかる」がおおきな懸念すぎてどうしても躊躇してしまう。デジタル完結の気楽さよ。あわせてのんびりやっている名刺相談も匍匐前進しつつ、音楽のアートワークのしごとをすすめる。HIPHOPユニットOFLOのジャケを以前につくったことがあるが、音楽関連のワークはそれ以来。カルチャー関連のしごとだけやってたいんだという、原初のきもちが取り戻されていく。


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ウォン・カーウァイ欲望の翼』(1990)。カット割のカッコよさよ! 切断点における動作の途中性、意味ありげな無機物インサート、全体ではなく部分にフォーカスを当てるフレームワークといった映画偏差値高めのテクニックが多用され、なおかつ画面に映しだされる「ふたりの身体」の物理的なちかさが緊張感を生みだし、「何かが起きそう」な間合いが画のおおきな支えとして効果を発揮している。この「ふたり」は作中に形成されるいくつもの三角関係におけるふたつの頂点にフレームを合わせるかたちで切り取られており、その外にある三つ目の頂点の存在もまた、テンションの張りに一役買っている。時間という作品を貫徹するテーマが、画でも、音でも、演出としてもたびたびあらわれ、その取り返しのつかなさが、退廃的かつ享楽的な作中の時間に深い影を落としている。とりわけ母の家を立ち去る際の引き延ばしショットは忘れがたい。

わたしが最も気に入ったのは、陰陽でいえば「陰」の女がいっときの精神のよすがにする警官の男が作品の中盤で退場するシーンで、降雨の夜に消えていく男をとらえた引き画に、その後の展開が書きこまれたモノローグをかさねて時間を未来へと飛ばす箇所。物語に突如ひらいたこのあざやかな切り口に、これは……!と俄然惹きつけられたが、しかし映画自体がそこまでよかったかといわれるとそうでもないんだよな。エドワード・ヤンのほうが好み。

好き嫌いの話とはべつに、地平の問題があると思った。満たされているが、満たされていない、みたいな話と本作を考えたときに、そもそもその「満たされているが」なんて状況が訪れることをわたしは想像できない。いまの日本に生きていて、そんな未来の光景を(あるいは現在の光景でもいいが)、あなたは自己のうちに見いだすことができるか?

夜、竹の子豚バラ包み揚げ、餃子の皮ピザ、スープのあまりetc. 包み揚げは山椒塩と味噌マヨかつぶしソースで。顎関節の痛みにやさしくない献立だった。今後しばらくはわたしにやさしいやわらかいメニューにしたい。