いくつもの誤解の末の墓場を荒らす

右顎が痛む。耳に通ずるような箇所。咀嚼しようと口を開けると、違和がある。

カミール・パーリア『セックス、アート、アメリカンカルチャー』を読みはじめる。訳者あとがきに引かれている以下の発言にまず付箋を貼る。

そんな暮らしで孤独を感じないかと聞かれたカミールはきっぱりと答える。孤独であるはずがない。「わたしの自己愛は何よりも大きい」のだから。「トリスタンにはイゾルデ、ロミオにはジュリエット、わたしにはわたし」

わたしにはわたし! 

しらすと干しエビで炒飯をつくり、機動戦士Zガンダムを35-39話。35話「キリマンジャロの嵐」で「止まれ、フォウ!」とカミーユが叫ぶシーンに、ディジェに乗ったアムロのカットインが合わせられており、なんだこの演出は!とたまげたが、単に収録時のミスらしい。初放映からもう40年ちかくも経っているのに直されていないのがウケる。使いようによってはおもしろい効果が生みだせそうな気配がある。変な効果といえば、38話「レコアの気配」でカミーユとクワトロが地球から宇宙へとロケットで向かっている際の画のブレがすさまじい。ロケットの振動をそのまま画面にも反映しているわけだが、じっさいに地震がおきているのか?と錯覚するくらいのゆれでわらってしまった。

今回のおしゃれポイントは39話「湖畔」でのファのファッション。ベルベットっぽい臙脂色のセットアップに、パープルのシャツを合わせたシックな装い。ジャケットの着丈が短いのがポイント。EDの格好も変わっていた。こういうところに永野護の精神が息づいているのだろうな。全50話ということでそろそろ終盤のはずだが、いまのところクライマックス感はさほどない。ミネバさまの偉そうなものいい、ちょういい。


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起きてきた祖母にも炒飯を食べさせ、ふたりで買い出しへ。風がつよいが、よい陽気。スイカがたべたいというのでカットしたものが入ったパックを贖う。帰りにはフラフラになっており、もっと歩かないとだめだよと諭す。

帰宅後は、映画でも観っかと祖母を誘い、セーラ・ガヴロン『未来を花束にして』(2015)。原題はSuffragette(サフラジェット)。参政権拡張論者の意で、20世紀初頭のイギリスの女性参政権運動を背景に、一人の女性が女性解放の闘士になっていくさまが描かれる。映画としてはさほどおもしろくなかったのだが、主題にはもちろん熱くなるものがあり、やっぱり暴力抜きは革命は起きえないよね、とうなずきながら観ていた。50年間平和的に活動をしてきた結果が、「なんの成果も!! 得られませんでした!!」なのだから。そうした歴史を踏まえて、「言葉ではなく行動を」を実践する投石シーンとか、集会シーンとかを見ていると、こういう「現場」がないと「運動」は発展していかないのだということもまた理解されるだろう。ハッシュタグ・ポリティクス(ハッシュタグ・アクティヴィズム)に身を投じたところで、フィルターバブルとエコーチェンバーによってほぼ固定化してしまっているSNS空間においては、新たなひととの「出会い」が起きる可能性はひじょうに低く、街頭でビラを配ったり、プラカードを持って路上に立ったりする「勇気」があってこそ、そこに新しい回路が生まれるのだから。キャリー・マリガン演じる主人公モードが、ショー・ウィンドウに映る自身のすがたが投石によって叩き割られるのを見るとき、そこには未知への風穴が開いているのである。

映画としてのおもしろみとしては、カメラが手持ちかつずっと移動しているシーンが多用されており、そのゆれうごきがモードが運動に参加するかしまいか、あるいは彼女の不安や恐れといったものと同期し、隙間から覗き見るようなショットの挿入も相まって、サスペンスをつくりだしていたのは興味深かった。夫に対して、「もし娘が生まれていたらどんな人生かな?」と問いかけた際の「君と同じさ」という、げんじつを何ひとつ認識していない絶望的な言葉や、自分の誕生日に養子に出される息子の心情なども印象的だった。何よりキャリー・マリガンはマイフェイバリットフィルムである『わたしを離さないで』以来のファンなので、それだけでたのしい。