セルフ・コンフィデンスの前借り

やまがたすみこばかり聴いている。ベスト盤のジャケがいい。

めざめ、しらすとオリーブの炒飯。うまい。

「最後の友達と三人で神田川でビールを飲んだ」。そういう風景がここにはない。死にたさが増している。こんなとこでおわりたかねえんだおれは。どこにもマザーファッカーが歩いていない。I MISS YOU MUH-FUHってこういうきもちか。

食後はアイデアが浮かばないといっていたコンペのデザイン。手をうごかしていたらキュートな1案ができたので、ありがとうマイハンドってな具合で途中に辛ラーメンwithそせじ、卵、チーズ、海苔、ねぎをかっこみながら、プリキュアの放映時間まで調整をつづける。コンペやアワードの類でとにかくむかつくのは、募集サイドが応募作の著作権を問答無用に譲渡させようとすることで、入選作だけならまだしも(それもたいがいクソだが)、応募された作品すべてをその対象とするような文言を恥ずかしげもなく掲載しているような輩ばかりで、死んでくれというきもちになる。こういうところで手抜くなよ。何が人格権は行使しないものとするだよ。そんな無茶苦茶な話があるかよ。デザイナーやイラストレーター、写真家、アーティストなどに敬意を払わない、ゴミカス搾取企業どもめが。しかしそうしたスペックワーク(Speculative Work:投機的なしごと、いわゆるやりがい搾取的なタダ働き)に対しても、わたしのような「無名」な人物は、ブツブツ文句をいいながらも応募をおこなってしまうのが実情なのだ。武士は食わねど高楊枝の精神もわかるが、食わなきゃ生きていないのもまた事実である。その板挟みのなかで生きるのが、ネオリベ資本主義で制作者としてやっていくということである。くそくらえすぎる!


f:id:seimeikatsudou:20210509235828p:plain
372


トロプリ11話。サンドアート回。バルーンをふくらませるみのりん先輩がかわいかった、くらいしか感想がないが、、ローラのカットをきざんで入れる演出が光っていたが、その比重に比べると締めかたに弱さがあったのでは。これは前後編の前編なのか?と思うくらいにローラが孤独を感じているような描写を多用していたわりには、安易な「和解」がおしりに添えられていたという印象がぬぐえなかった、ということである。

カミール・パーリアの『セックス、アート、アメリカンカルチャー』が届く。ダートバッグレフトの話を書いたときにその名をしって気になり、ちょうどフェミニズム関連のしごとをしたこともあって購入に至ったのだった。読むのがたのしみ。