ミューと音を立てて彼女は息絶えました/漏水

マイケル・ムーアボウリング・フォー・コロンバイン』(2002)。「なぜアメリカは銃による殺人が世界一多いのか?」を、コロンバイン高校銃乱射事件を端緒に、じっさいに銃撃を受けた被害者や、全米ライフル協会会長、銃弾を売るスーパーマーケットなど、国境を越えながら多くの人物に材を取って調査したドキュメンタリー。先の問いに対して、同じく銃社会でありながら圧倒的に殺人数が少ないカナダと比較して、視聴者に恐怖を詰めこまないマスメディアの姿勢のちがいを本作は提示するが、そんな「答え」にふんふんと納得することだけがこの映画のたのしみかたではないだろう。

たとえば、前半にアメリカの中流一般家庭の紹介が為されるシーン。鉄格子にナイフを差し入れて、これじゃ刃が通らないねなどとお茶目にいう監督(本作ではムーア自身が「主役」になって画面を闊歩する)が、「槍なら?」と案内をする男(不動産屋?)に尋ねると、答えを待たずにカットは切断される。あるいは、地下の分厚いドアを指してこいつは頑丈で壊れないと自慢する男に対して、「斧なら?」と尋ねた際に、「斧ね」とその語を受け止めた段階で、シーンは遷移する。重要なのは「答え」ではなく、そこに至るまでの「過程」だということがよくあらわされているユーモラスな編集である。とんちこそが、ここではスポットライトを浴びている。

逆に闇の集まるポイントとして、マリリン・マンソンと黒人男性がこの映画には配されている。殺人犯がマリリン・マンソンを聴いていたから、テレビに映る凶悪犯はいつだって黒人男性だから、わるいのはこいつだ!と決めつけるコメンテーター、あるいは、大衆。諸悪を特定のカルチャーや属性をスケープゴートにして「安心」を得ようとする態度のクソさが、嫌というほどに身にしみる。ひととひとをつなぎうる「信頼」はそんな場所では生まれることはないだろうし、急ごしらえの「安心」でつくられた欺瞞だらけの「平和」など糞食らえである。

専制国家を倒すのが国民の役目だ、と語る銃規制反対派の話はまあそうだよねと思ってしまうし、コロンバイン高校のプレートに書かれた「Home of the Rebels」(反逆者の故郷)というスローガンにはかわいたわらいをこぼさずにはいられないだろう。死体や殺人シーンも躊躇なく画面に登場するが、ポピュラーソングとともに流れるそれらは、観る者に「恐怖」を呼び起こすことを目的にしているわけではない。銃所持に賛成するにしても、反対するにしても、全米ライフル協会会長が述べるような「暴力の歴史」の内実を、わたしたちはしる必要があるのだから。

夜、チャーシュー、キャベツ、玉ねぎのトマトガーリックスープ。チャーシューの用途はスープが最強かもしれない。これまで百杯は食べてきたであろうラーメンでそのことをしっていたはずなのに、いまさら気づく。

インタビュー立ち会いにそなえてzoomの機能チェック。Eさんに手伝ってもらう。オンラインでのインタビューははじめてのことなので、予行しておかねばと思ったのだった。スマホから、PCから、ソフトも変えていろんな方法を試した結果、ズームの機能でレコーディングするのがいちばんよさそうだ。本番もぶじに済みますように。


f:id:seimeikatsudou:20210501024906p:plain
364


ラジオ、リスナーがいることのモチベーション維持力はすごい。今日はおたよりまであって、それが石炭となってさいごまで走りきることができた。話題のつなぎがその場で生まれる瞬間がたのしい。しばらくいそがしくなりそうなので、ラジオも次週次次週あたりはふんいきが変わるかもしれない。取り上げる作品について、ブログで書いてから話すか、書くまえに話すか、どっちがいいのかいまだにわからない。