海を積む

米を炊き、洗濯機をまわし、掃除機をかけ、塩麹に漬けておいた鶏に小麦粉とおからパウダーをまぶして焼き、刻み椎茸と長ネギ、かつおぶしを入れて和風の炒めものができあがる。茄子の煮浸しを食べきる。食後、10数年ぶりにいとことネトゲ(なつかしいひびき!)。複数人でやるとたのしさ倍増だな、と素朴に思うのだった。洋ゲーであり、パッチを当てているとはいえすべてが日本語化されているわけでないので、英語の勉強にもなればよいなと思う。

週末になると夜更かししてしまうこの時間軸をどうにかしたい。日々、うしろへうしろへと微動してゆく。ウィザードリィみたいなスマホゲーをひとつインストールし、3分くらいプレイして即アンインストールする。ウィザードリィはやったことがない。

トロプリ5話。キュアフラミンゴ登場回。これまで人目を忍んできた人魚・ローラが、あきらの前には堂々とあらわれる演出が愉快。人間界への慣れ、ローラがプリキュアに求めるもの、今後のキュアフラミンゴとローラの関係性への布石など、さまざまな要因をそこには見いだすことができる。生徒会長との部活申請のやりとりのなか、まなつのふざけた申請書に対して、さんごが「否定しない」芝居をしていて印象的だった。映画の予告にリラックマがでていたのに目を奪われる。べつに好きなキャラクタではない(きらいでもない。


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15時頃まで昼寝し、MKRのYouTuberコンテストみたいなののアーカイブを観る。つまらない動画も、「みんなで観る」というフレームがあることによっておもしろくなるのがおもしろい。MKRの話術もある。わたしたちが何かを観たり聞いたり読んだりするときの環境は、想像以上にわたしたちの知覚や認識に影響を及ぼしている。話の節々にあらわれるジェンダー観につまづくこともあるのだが、世間の認識なんてそんなものなのだろうと自分の親などを見ていても思う。ただ、そこであきらめるような心性にも立腹するので生き難い。目に入る瑕疵のすべてに目くじらを立てつづけることのできるついった戦士はどういう精神状態で生きているのだろうか。

「ちゃんと考える」ことと「話す」ことの相性のわるさについて。正確にものをとらえて思考していたら、倫理や論理にがんじがらめになって何ひとつ喋れなくなってしまう気がする。気がする、というか、そうなのだ。気を抜いていなければ、わたしは会話することができない。家のなかで、誰でもいいが話をする際に、どうもテンポが合わない(つねにわたしが遅い)のは、思考にリソースをつかっているからで、話す段階まで一足飛びでいけないことに由来している。平気でにさん日前の話題をもちだしてくるわたしは、遅いとよく文句を垂れられる。原理への回路を迂回して、わたしたちは言を交わしている。

話は少しずれるが、せんじつボアズがアフロとのコラボ楽曲のURLをついーとしているのを見て、サイコーにアツいな!とすぐさまりついーとしかけたが、映像をさいごまで観て/楽曲をさいごまで聴いて、りつを取りやめることをしたのを書いていて思いだした。中身を見ずに反応するような瞬発性に身をゆだねるのはやめようという意識がはたらいた結果の行動で、おしりまで鑑賞したときの実感が「RTに値しない」との判断を下したのだった。ひとびとの指先からくりだされる嘘まみれのそれらに価値を見いだすような目眩しに眼球が痛むのはけっしてわたしだけではないと信じる行為が、悲劇的だというきみの目を撃つ日のために遂行される。ドン・キホーテがいる。