プツプツを嵌める場所

ロッコリとハムと玉ねぎのスープ、ジンジャーポテトのトマトチーズグラタン(ホワイトソースなし)、人参とダイヤモンドカット蒟蒻のソテー、昨日の鮭のあまりにマヨネーズとマスタードと鰹節を混ぜたソースをかけて食べる。それぞれ美味なり。蒟蒻は焼く前にもっと揚げる必要がある。手間がかかるのでもうやらない。

デザインのしごとが入ったので、それに触発されて素材集めをする。まだどんなものをつくるかは決まっていないので、とくに目的は定めずに、ピンときたもろもろを収集する。麻雀も打つ。今日は運がよい。次々回のラジオに向けて『現代詩手帖』2014年9月号をひっぱりだしてきて、綿野恵太「谷川雁原子力(中)」を読む。「震災後においてはだらしなく言葉を垂れ流す「こころ」ばかりが賞賛される」。上も下も読みたいのだが、手もとにはこの1冊しかない。単行本化が待たれる。さて、なぜ本号のみを所持しているかといえば、はじめて入選した号だからである。載ったかどうかにかかわらず買い始めたのは2015年に入ってからだった。ちらと読んで、いまではとうてい書けない若書きぶりに赤面するばかりだが、いつかでるだろう詩集に収録する予定ではある。「一回きりの跳躍」と松本圭二がいっていたが──そして本作で「跳躍」できているとはつゆにも思わないが、そういうドキュメントとして第一詩集というのはあるものだろう。

Oにすすめられた杉浦次郎『ニセモノの錬金術師』を読みはじめる。異世界転生弱者に手を差し伸べモノ(そんなモノあるの?)。序盤を読むかぎり、四肢を切り落とされだるまになった傷だらけのエルフを元気にするために、褐色呪術師奴隷とともに、主人公のチート錬金術師があれこれする話が展開されている。直接的なエログロ描写はいまのところないのだが、ログインしないと読むことのできないR-18作品となっており、まったく稼働していないピクシブアカウントが役立つこととなった。web漫画を読む習慣はこのところすっかり途絶えていたが、せんじつのパペラキュウをきっかけに再燃してきている。


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けっきょく夜が明けるまで、240話ぐらいイッキ読みしてしまった。スープを飲み、就寝。夕方に目覚め、はんぺんを焼き、刻んだ長芋とチャーシューとキャベツを醤油やかつおぶしなどで炒める。途中、コンロの汚れを取ろうとキッチンペーパーで拭いていたら火がつき、左手の人差し指を火傷する。せんじつ焼いたばかりの場所で、再災難である。そのとき思ったのは、ちょうどキッチンには母親もおり、その「ふたりいる」という状況が、ふたりの動作を制限するということだった。すぐに火を消せばいいものを、もうひとりいるという状態が、わたしをそこに立ち尽くさせたし、母親の動作を遅れさせもした。これは想像の問題でもある。岡田利規がWSでいっていることの実証例として考えられる、とおもしろく思った。ここでわたしのあたまに浮かぶのは、シモーヌ・ヴェイユがいっていた以下のことだ。

わたしたちが路でひととすれ違うとき、そこにはり紙があるのとは違った歩き方をする。部屋のなかに客がいるとき、ひとりでいるときとは違った挙動になる。このように、「ひとがそこに存在する」ということがわたしたちに与える影響力は定義するのが難しい。(『イーリアス』、あるいは力の詩篇

ひとに作用するのは人体だけではないが、そこにひとのからだが存在することのはたらきはきょうれつである。むろん、ここにも想像力がいちまい噛んでいる。