自分の首をどこまで締められるかゲーム(ちからじまん部門)

めざめ、パンとカレーを食べます。洗濯機をまわし、ゆきまじりの風がぴゅうぴゅう吹くなかをスーパーにかいだしへゆきます。きのこやパン粉や豆の缶づめなどをかい、もときたみちをもどります。今日の夕飯は塩鮭のフライと、きのこのバターソテーにします。斉藤斎藤『人の道、死ぬと町』を読みすすめます。ラジオまでに読みおわるかはわかりませんが、話す話題のひとつにします。

いざ調理にとりかかると、きのこソテーは豚肉を入れてきのこ汁になりました。なぜなら、にんじんごはんをつくることに決めたからです。この「なぜなら」に対して首を縦にふるのか、横にひねるのかが、人生の分かれ目です。あなたはどっちでしたか。わたしはこっちでした。どれもたいそうおいしくできていきます。なぜなら、わたしは料理がうまいので。

MOCAF(Museum of Contemporary Art Fukushima)という美術館(というよりも作品のてい?)が今年の3月に富岡にできるようで、ぜひこちらにいるうちに足を運んでみたいと思いました。おそらく「Don't Follow the Wind」展の面々も設立にかかわっているはずで、(たしか)ワタリウムで買った図録の封をまだやぶらずにいるのだよなと、思いだしました。


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10年の歳月が経ったわけです。その日はちょうどわたしの大学受験の合格発表日で、すでに発表の時間は過ぎていたのですが、落ちていれば2浪が決定するというげんじつから逃れたいがために発表ページをなかなかひらく気になれず、リビングのこたつに入ってミヤネ屋をぼーっとながめていたのでした。ぐっと部屋がゆれました。テレビではミヤネが「大阪もすごいゆれています!」と叫んでいましたが、こっちはそれ以上にゆれています。しかも、おさまらない。ずっとゆれている。ひじょうにながいのです。窓が悲鳴を上げています。さすがにこれはまずいのでは、と小学生の頃に避難訓練でなんどもくりかえしたように、机の、もといこたつの下にからだを潜りこませました。地震で身の危険を感じた、生まれてはじめての経験でした。これまたはじめて耳にする家のきしむ音に肝を冷やしながらあたまをだしたりひっこめたりしていると、祖父が自室からふらふらでてくるのが見えました。わたしと祖父のあいだにあるキッチンでは、食器棚がやかましく音を立てています。どんな言葉を交わしたかはもうおぼえていませんが、いま起こっている事態のきょうれつさを、みじかい語とこわばった表情で確認しあったように思います。テレビを見ています。また、自室に移動してPCも見ています。ふたつの画面を行ったり来たりしながら見ています。ついったも見ています。14:47の時点で「地震やべえ」とわたしはついーとしていました。「家が軋んでる」(14:48)、「地震に初めて恐怖感を覚えた」(14:50)と続きます。1浪しているわたしとちがって、友人たちは東京や仙台などでゆれを体験しているようです。ついーとを読み、りぷらいを飛ばしたりして、彼らのぶじを確認します。それから、当時よく見ていたニコニコ動画をひらきました。おそらく2chもひらいたことでしょう。ニュースの中継が流れています。津波を見ています。田んぼの上をすすむ真っ黒い波を見ています。車が流れています。港でしょうか、車だか、小屋だかの上に、ひとりきりで立っているひとが映像に映っています。しばらくして、インターネットにつながらなくなりました。さらにまた時間が経って、わたしは自分の合格をしりました。これが、わたしの2011年3月11日の記憶です。忘れてしまわないうちに、こうして文字にのこしておきます。

翌日にわたしはブログを更新していて、記事がその日だけではなく1ヶ月ほど前から日をまたいで書かれているといえども、そこにまったく震災の影がないことに後年のわたしはおどろいたものです(いま見てもびっくりします)。大学に入って、3.11をどのようにとらえているか、といった問いがなされる授業がありました(自分のなかのターニングポイントは?みたいな問いだったかもしれません)。周囲の学生はおおごととしてとらえているひとが大半でしたが、当時のわたしはそれを冷ややかに見つめながら、さしておおきな影響はない、切断点ではない、というような回答をしたことをおぼえています。ですが、いまこうやって年月をかさねてみると、まちがいなく転換点になっている、と感じられます。当時のわたしがなにをどう考えていたのかも、そしてこの10年のあいだになにがどう変わったのかもよくわかりませんが、このような変遷があったということも記録しておきます。

経験を、なんどか詩に書いたことがあります。それはいつかでるだろう詩集のなかに収録されることになります。それはまだ浅い格闘のすえに生まれた、荷のかるいものです。いつかわたしは、福島に生まれて、福島でゆれを体験した身として、このことを作品のなかできちんと扱わなくては、と考えています。ただ同時に、その生育にまつわる境遇だけで、ひとつの型にあてはめられてしまうのはかなしいことだとも思います。