あなたが消える必要なんてないのに

 センシティブが過ぎるから、目や耳にするものがたやすくからだをつらぬいてしまって、いびつなぎざぎざのきずぐちがたくさんできる。その赤くなったからだの一部が、夜な夜な点滅をくりかえして「わたしを見てよ」とずっと声を上げつづけているのを、無視してしまいたいと思っているにもかかわらず、ちいさな耳を注意深く傾けて、おそるおそるながらもさきっぽでさわってしまう。そうした夜の回数が、あなたを肉の涯深くまで痛めつけて、散々いじくりまわされた患部が痛々しく腫れ上がるのも、背負う必要のない幽霊のようなおもさに押しつぶされているすがたも、幾度となく見つめてきた。そして、あなたはそのいつまでも居座るするどい痛みを、ただ身近にあったというだけの理由で、しょうもない、できあいのパテによって埋めようとする。痛みに追い立てられるようにして熱に浮かされた気分になって、やがては自己嫌悪に陥ることをしっていながらも、手を染めなくてもよいことに情熱を向ける。使い勝手だけはよい、即効性のある充填材に、あなたは身を乗りだしてぐっと手をのばす。やわらかく、害のなさそうな雰囲気をまとったそれは、自らに向かう指先に気づくや否や、やさしい重力をはなってすぐあなたに応えてくれる。柔和なほほえみが傷口を覆って、苦々しい血がひとときだけ流れるのを止めるだろう。〈その血のなかを、泳ぐことなしには〉。昨日の晩に読んだ詩の一節が、あたまのなかに浮き上がってくる。〈その血のなかを、泳ぐことなしには〉。なしには、なんだというのだろう。全身を血まみれにしたあなたが、弱々しい星の瞬きを浴びて、夜を踏みつけて立っている。そのような妄想が、ねむりに落ちる前の意識のほとりに降りてきて、きれいに並んだ白い歯を見せつける。

 無痛の形式を考えているんだ、それってどんなもの?、光らない星みたいな、光らない星?、瞬きあったりしないってことだよ、

 窓にはひとりのすがたしか映っていない。声はふた通り。声ではない音が、そのふたつの波の下に潜りこむように鳴らされている。

 それって星っていえるの?、光るだけが能じゃない、それはそうかもしれないけれど、そうやって伝わることもあるんだ、痛みの話?、

 カーテンがゆれる。三重の、厚い布と薄い布のたわむれが、視覚のほつれる場所で起こっている。その対角線上、部屋の真逆にある水槽に沈んだ、曝気をおこなう白いちいさな矩形が、体躯を小刻みにふるわせながら細泡を発していて、そこにあなたのすがたを重ねたりもする。吐きだされるその粒々のひとつひとつに、ひどく憔悴した諦念と、ひときわきょうれつな殺意と、勝手ににじみでる「わたしに気づいて」というメッセージをこめて、あなたはそのガラス張りの箱の隅で「そのとき」を待っている。周囲を泳ぐ魚たちが、屈折した光になって、分裂する。

 ずっとその話だけをしてるよ、どうして?、覚えていないくらい前から痛みに取り憑かれているからさ、ところで有痛ってバンドいるよね、You Tooね、

 水草がゆれるすがたを、あなたは自分に向けられたダンスだと勘違いする。求愛の、侮蔑の、憐憫の、脅迫の、その全身のうごめきがあなたに向けられたものとして、煌々とメッセージを発している。あなたはそれらをすべて受け止めた上で、いっさい何もしない。あるいは、まるでそれに応えないようなそぶりで、ささいな返事をする。気づかれなくても構わないという、むしろ気づかれなくてよいのだという、どこに向けているのかもわからないようなうごきかたで、あなたは振付の第一歩目を踏みだす。だれもいっしょには踊ってくれない、いや、いいのだ、さいしょからひとりきりで踊るつもりなのだから。そのような痩せ我慢のもとで、あなたはその姿勢のままじっと待機を決めこむ。

 みんな痛がってるってことだ、痛みはそれぞれ孤立したものだからはげましにはならない、でもわかちあうことはできるんじゃない、そんなのは無駄さ、なぜ?、

 あなたは夜を憎む。同じように、別様のしかたで、朝をも憎む。あなたに向かって到来する時間のすべてを憎む。突き立つ時針を、切り刻む秒針を、あなたは拒絶し、嫌悪する。

 痛みは分割されるんじゃなくて共振するだけだから、慰めにはなるじゃない、慰めあったってどうにもなるものじゃないよ、そうだとしたって、だから考えるのさ、

 無痛の形式を、とあなたにはひとつも似ていない声のひびきがひとりでにふるえて、消える。だれかといっしょにふるえたがっているようにも聴きとれるさびしさで、声帯が上下にゆれて、止まる。返事はない。水槽からかすかな振動音が聴こえる。カーテンの裂け目から黒い闇が見える。数えきれないあなたの思いが、幾重にも重なり、至るところでむすびあって、この深い深い色味になる。なんぴとも踏みこむことのできないこの暗闇で、ぜったいに訪れない邂逅の瞬間を、ぜったいに来るはずがないと思いこみながら、あなたはぜったい的に待ちわびている。あまりにもながいその忍従の姿勢に疲れたあなたは、この期待にまつわるあらゆるあれこれを、いっそのことはじめからなかったことにしようと心に決める。狂しく思惟をのばしつづける思考のうずまきと、いまかいまかと辛抱づよくはりつめていたゆび先とつま先に、もう安心していいよと声をかけてあげようとする。そうして星が流れる。すぐに消えてしまう光の描線が、次々に夜空に傷をつけようとする。無数の切り傷があらわれては消え、ひらかれてはとじていく。闇を破ろうとその身を焦がして、澄み切ったやりかたで星が絶命する。

 あなたが消える必要なんてない。あなたを見ようとしない「あなた」が消えればいい。あなたが記述する「あなた」が溺れている。血でみたされた四角形のなかで「あなた」はもがきつづけている。「あなた」はあなたへと必死に手をのばす。あなたへ。あなたのもとへ。またべつの四辺形が塗り変えられていくのをあなたたちは見る。窓にはひとりのすがたしか映っていない。声はふた通り。声ではない音が、そのふたつの波を束ねるように鳴らされている。無限につづいていく窓のなかを、そのさまざなかたちをした音の波が埋めていく。ひびきのつらなりが、痛みの形象をさだめようとする。まだ何も映っていない空白の窓のなかを、おおきな光がよぎっていく。そこまでたどりついたあなたは、息を継ごうと飛沫に濡れた顔を上げる。ほら、またいま、星が絶えたよ、