たがいちがいに頁をかさねて(わたしたちまるで●●●みたいね)

起床。昨晩のしゃぶしゃぶののこった汁に米と卵とねぎを投入して雑炊。うまい。ダムタイプ『2020』を観たりうみのてを聴いたりなんだりして夜になり、焼きしゃぶ。これまたうまい。ケーキも食べる。こんなにまいんちパクパクしていて大丈夫か。

夜、OとAさんと通話。21時ころから1時ころまで。おもにOの現在を中心に、ポリコレの潮流やら、わたしの小説やらも題材になりながらわらいの絶えないやりとりがなされる。なかでも、Oの読解のなかでシスターフッドという概念がわたしの書くもののなかに浮かび上がったことにひじょうに興奮した。書いている際にはべつにそんなことは意識していないのだが、いわれてみるとそうなのである。アンチマッチョ、アンチ中央集権、アンチホモソーシャルの思想が流れているという指摘。作品は読まれることでかがやきを増すことがよくわかる事例。これはAさんがいっていた台本/脚本が俳優の身体を通過してべつのすがたを見せるという話にも通ずる。

ほか、のり巻きにすればごはんが食べられるひとに対して、べつの食べかたもできるように矯正する必要があるのか?という介護の現場でOが遭遇した問いがとても刺激的だった。


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ダムタイプ新作の印象。身体ではなく複合。ちょうぜつなムーブメントはひとつもなく、光と音とのコンプレックスによって場をつくっていく。画面ごしにも、でかい空間ならではの重力を感じさせられた。照明芸術という感があった。振付はキレのないうごきが主体であって、なおかつくりだされる言葉もユーモアをたたえていて、けっこうふざけているとも思った。これは都現美の展示を観た際にはあまり感じなかったことかもしれない。

観おえたあと、舞台芸術における身体/言葉(声)というふたつの方向性を考え、前者がダンス、後者が演劇、その合間に光と音という映画を配するのはどうかと思った。オペラは? 歌舞伎は? 漫才は?とわめきちらすわたしもいるが、どうにかしてその配置図にピンを刺すことができるのではないか。

朝までゆーちゅーぶを観、プリキュアを観て入眠。天から俯瞰したり、プリキュアたちの背中からショットしたりとカメラの位置の工夫をおもしろく思った。つぎのプリキュアの詳細が解禁されたが、次回予告をみるに終盤ぽさがではじめた。

夜に起き、ひさびさに自分以外のつくったおかず(豚キムチ)でごはんを食べ、ラジオに向けて今年読んでよかった本を探しに段ボールをあさる。