血へ問え

 ひとは痛い目をみないと学べないんですねえ、と自らの手ににぎったノミにハンマーを叩きつけ、右足の小指をいきおいよく切断した。血しぶきがピッと跳ねて、前方のガリ勉たちにふりかかり、その結果ではなく、準備動作の段階で悲鳴を上げたくちのなかに着地する滴も少なくない数あった。その騒動の十列ほど後ろでまどろみの渦中にいた尾長は、イヤホン越しでもわかる慄きに意識を自らのコントロール下にもどしながら、ゆっくりと顔をもたげた。教壇でホトケが血塗れのノミを振っているのが目に入る。
「居眠りをしていたひとたちのためにもういちどやってみましょう」
 おそらくは先ほどと同様のプロセスを経て、ホトケは自らの右足の薬指を切断し、その身体からへだたった短い二本の指を、ハンマーをもったままの手の先のほうでひょいとつまんでみせる。何人かの学生は鞄やからだを机や椅子にあわただしくぶつけてガタガタ音を鳴らしながら退室し、べつの何人かは口に手をあてたままぴたと凍りつき、またほかの何人かはスマートフォンをとりだし、この唐突にはじまった人体切断ショーを自らの端末におさめようとカメラを起動していた。イヤホンを外してより明瞭になった悲鳴が花ひらく教室内をひと通りながめた尾長は、ふたたび黒板の前に立つホトケに視線をもどす。
「こうやって痛みをしっかりと感じることで、もうこんな過ちはしないぞ、と思うことができるのです。同じ失敗をくりかえす人間は、痛みをちゃんと引き受けられていないんです。ああ、やってしまったなという落胆や情けなさに一瞬とらわれるだけで、そこに痛みを見つけることをしないんです。そこできちんと痛がらないとダメなんです」
 しゃべっているあいだにもホトケの足からは血が流れつづけ、段の角に設けられた滑りどめに沿って、血はゆっくりと教室の出入り口のほうへとのびていった。
「先生は痛がっているように見えませんが」
 真後ろから声がして、尾長は身をかたくした。つめたい女の声だった。
「いい指摘です。そうです。わたしは痛がっていません」
「なぜですか」
「学ぶというのは先があるひとたちがすることです。もうわたしには先がありませんから、いちいち痛がっている必要はないのですね。だから、」
 と、三本目の指が切断される。教室の反応は二本目よりもちいさくなる。ななめ前に座った男の手ににぎられた画面に切断面が急激にズームアップされる。粗いドットに分断化された身体の色が、のっぺりとディスプレイを埋めつくす。
「わたしは年明けにはもうこの世にはいません。後期の授業は今日でおわりです。単位は受講してくださった皆さんすべてにだしますので安心してください」
 ホトケは腕時計に目をやり、では授業をおわります、といつものようにくるりと背を向け、板書を消す体勢に入った。ノミとハンマーと三本の指が机上に置かれ、流れでた血液の先端が教壇の端で血だまりをつくる。
「なぜですか」
 女が問う。
「なぜですか」
 文字が消える。
「なぜですか」
 血が決壊して教室の床に流れ落ち、退室する不注意者の靴がそれを踏みつける。靴底にへばりついた血液が床に点々と押されていき、教室の外まで赤黒い血痕のつらなりができる。
「なぜですか」
 背中で女の声のひびきを受けながら、尾長はその血をたどって、どこまでも歩いていく。