おまえのザウルスが泣いてるよ

東京にこにこちゃん『ラストダンスが悲しいのはイヤッッ』。映像で。主宰の萩田頌豊与に以前送ってもらっていた。主宰直々に、せっかく名指しで観てほしいといわれたので、茶を濁すようなことはここでは述べない。観て感じたこと、考えたことをつつみかくさず書いていく。

前説だけは送ってもらった直後に見ていたのだが、やっぱりおもしろい。本編をぶっ飛ばしてしまう「後説爆弾」が爆発するかもしれないというくだらない(ほぼ)一人芝居。序盤のピークだとおもう。尾形悟のおおきなからだから放出されるスロウさが、空転ぎみなユーモアとからみあって、よい具合にわらいに昇華される。これはたとえば本編での怒りを表明するための「ジャケットを脱いでは捨てる動作の反復行為」にもいえ、それが「ウケていない」ことも相まって画面のまえでひとりわらってしまった。尾形悟×反復のおもしろさは、いつかの探偵ものの作品で「犯人はおまえだ!」とひとりで何役も演じていたシーンが白眉としていまだに思いかえされ、観おえたあと、これは過剰に身体を酷使するひとりマームとジプシーだ!とずいぶん興奮したものだった。

終盤のシリアスな台詞が交わされているシーンの舞台端で、顔をポリポリとかいているたたずまいもよかった。けっして気が抜けているわけではないのだが、場にそぐわないひょうきんな時間がそこに生まれていて、そのギャップがわらいを創出していた。本作随一の存在といってもいいだろう。そしてこれは、作・演出である萩田頌豊与から、役者・尾形悟への愛のあらわれの結果ではないだろうか。尾形演じる月井と亡き妻、恋人同士であるエンディングプランナーの恩田と久保、主人公・美笑の両親である塩乃目夫妻……と、作品のなかでさまざまな「愛のやぶれ」が描かれているように、本作の主題のなかには「愛」の存在がある。尾形のポリポリムーブが発動したシーンで、美笑が自らの意志とは関係なしに決定されようとする自身の埋葬の仕方ではなく、両親の「離婚」という事象に感情をあらわにしていたことにも愛へのこだわりが見える。ラストシーンで二回くりかえされるネクタイをむすびなおすシーンは、その愛のやぶれを「むすびなおす」うごきであり、エンディングにふさわしいとてもうつくしい動作だった。ただ、これは「妻(女性)が夫(男性)のネクタイを直す」という旧態的な家族観に裏打ちされた所作でもあって、フェミニズムに関心がある者としてはちょっと鼻についてしまったことも書きのこしておく。二回のうち一回が逆のベクトルのうごきであったなら、この印象も変わってきただろう。

さて、「二回くりかえされる」と書いたが、ここにわたしがもっとも言及したい点がある。ここまで褒めてばかりだった尾形悟の立ち回りだが、美笑を救いだす決死隊に尾形がひとりハブられるくだりにはクドさを感じてしまってあまり乗ることができなかった。「くりかえし」にもあらわれているこの「クドさ」こそが、先日のM-1を見ていた体験を背景に、本作を観ていくなかでわたしのなかに浮かび上がった最大の概念である。その象徴として本作に頻出するのが「高笑い」だ。登場人物たち、とくに美笑の母親である雅子は、舞台上でよく「わらう」。「わらう」という行為は「つられ笑い」を誘発するものもあるが、本作における俳優たちのわらいはそうした意図のもとでくりだされるのではなく、ストーリーを補強するものとしてあらわれる。所作を戯画化することによって、キャラクターや物語の運びを強調するのである。この種の補強材は、たとえば、回想シーンに入る前に必ず鳴らされる鈴/挿入されるドラムシーンも同様のものとして存在している。これらはわかりやすいストーリーテリングのための演出としてわたしの目に映ったが、どうしても記号的な役割自体が前景化しているように思え、あまり乗ることができなかった。観ていてどうもむずがゆいきもちになってしまうのだ。

以前、頌豊与と話している際に、「作品が万人に受けなくてもいいじゃないか」というようなことをわたしがいったのに対して、彼は「作品を観たひと全員におもしろいと思ってもらいたい」といった趣旨の返事をかえしてきたことがあった。ゆえに、こうした語り口を選択しているのだろう。最大公約数の受け手へと訴求するためには、「わかりやすさ」なしには作品はとどかないからだ。わたしはわからなくていい派のにんげんなので、どうしてもそこに反発があらわれてしまう。そこまでやらなくていいよという感情だ。だが、公演当時、好評のツイートばかりが流れていた記憶があるので、ここは単にわたしがひねくれものであるという結論をたたきだしておいてよい。余談だが、かつてにこにこちゃんの感想を書いたときもそんなことをいっていた。

また、この「クドさ」──いいかえれば「ていねいさ」に──関連することかもしれないが、バックグラウンドを踏みちぎるほどの跳躍があれば、という印象も否めなかった。本作は頌豊与が体験した父の死が下敷きにあるが、観おえたあと、noteに掲載されているそのじっさいのエピソードのほうが強度がある、と思ってしまったのである。「ラストダンスは悲しみを乗せて」が爆音で流れるなか、喪服に身をつつんだ参列者たちによる鎮魂のダンスが美笑、さらには父へも捧げられるラストシーンは、とても感動的だ。きちんとした骨組みによってそこに至る滑走路が手堅くつくられ、物語がその上をしっかりと羽撃いてゆく。きれいである。端正である。よくできたフィナーレではないか。そこに破綻をもとめるのはわたしのわがままかもしれないが、土台がこわれるほどの跳躍をそこに見てみたかったのだ。noteに書かれている言葉に仄見える「いびつさ」が、本作では見栄えよく均されてしまっているように思えたのである。

ほか、細かなところに触れておけば、カット(暗転)の多さが気になった。どのような意図でこうした構成にしているのかはいつか本人に聞いてみたい。映像化された舞台芸術は役者の魅力を多分に削ぎ落としてしまうと考えているので、その魅力を十二分に受けとれたとは口が裂けてもいえないのだが、役者にも多少なりとも触れておくと、hocotenの新鮮なキャラクターや、青柳美希の声の通りなどに目を瞠った。全体的に叫ぶ台詞がそれなりに多いなか、録音状態も関係しているのかもしれないが、青柳の放つ語の輪郭は頭ひとつ抜けていたと思う。ラジオでは「台詞の通り」が効力をなさなくてもわらいが生まれるリズム的・音楽的笑いの存在にも触れたが、こと「文学」の血をその身に流す「演劇」においては、台詞/言葉が観客に伝わらないというのは致命的なのではと書いていて思い至った。

主人公の美笑という名前もよかった。「ミショウ」という音としてその名を耳にするわたしにとって、それは最初「未生」の字として聴こえたが、徹頭徹尾「死」が中心にある本作において、「うつくしいわらい」と「いまだうまれぬ」というそのダブルミーニングは、単なる勘違いだとしてもよいはたらきをしていた。タイトルの末尾に付された「ッッ」も特筆すべきことがらだろう。海外において「ッ」はスマイルマークとして使用されることがあるが、その視点から本作の題をながめてみれば、最後は「わらい」なのだという東京「にこにこ」ちゃん=萩田頌豊与からのさりげなくもちからづよいメッセージがあふれだしているようではないか。そのななめに上がった口角をたどってゆけば、きっと天にまでとどいていることだろう。


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ニンニク塩水で茹でブロッコリ、マスタードマヨソース。牛バラカレー、具は人たまピーマン。スパイスはクミンシードとフェヌグリークをスターターに、小麦粉+カレー粉で日本的に。うまし。食後、洋梨。うまし。録画したM-1を何組か観、家族間のわらいのツボのちがいをしる。

深夜までどれを買うか迷いながらも、紙の見本帳とDVDドライブを購入する。秋ぶりのクレカ利用限度額バトルの兆し。まいつきつかって数年経つのにつくったときの最低金額からまったく上がる気配がなく、どういうことやねんというきもち。ファックオフ。