後生の歯切れを抱く手を射よ

いいきることのむつかしさ。配慮がその邪魔をする。だれがなにをいったわけでもなく、自身が自らに抑圧をかけ、発されるまえの言説に検閲の目を走らせる。そのストレスはやがてはけ口をもとめだし、エクストリーム化した代弁者へと快哉を叫ぶのか、あるいは蹴躓いた似た顔の耳目に罵声を浴びせるのか。わたしたちを縛る縄を増やしたり複雑化させたりする方法を選ぶのではなく、「放任」への信頼を培うこと。他者を、ひとを信じるとはそういうことではないのか? あきらめにもよく似通ったその横顔を、わたしはどのように励ませるだろうか? 予防線を張ろうとする意識が、わたしを息苦しい袋小路へと追いこんでいく。

乗代雄介がここのところ毎週更新している書評のなかのひとつで、以下のように文章をしめくくっていた。

 それがどこのどんな誰であろうと、何の衒いもなく「いや、あいつはきちんと笛を吹いているよ」と評価されるのが理想の社会で、今、そんな社会を目指して世相は動いているけれど、その圧倒的に正しい動きに対する一抹の違和感も、こんなところにあるように思える。
 そんな社会を目指す手段として「これはどうでもよくないことだ」というメッセージが、それぞれの性格に応じた態度で世間に発されて世論を作る時、真に理想的態度であるはずの「どうでもよい」は捨象されかねない。その意識が社会に行き渡るまでは存在するこの矛盾に、だからどうするという案は自分にはないが、自分なりに「どうでもよい」と思いながら、日々を生きている。

この「どうでもよさ」がすみずみまで行き渡った世界が、「だれもがありのままに生きられる世界」なんだと思った。というか、そういうことがここでは書かれている。べつにだれがなにしてたっていいじゃないか、という気分。他者ときちんと距離をとれる社会(「ソーシャル・ディスタンス」ではけっしてない)。分別。そう至るまでの道のりのけわしさを思うとやりきれないが、そのようにしてふるまうことへの相互の理解の地平を、自身がその地に突き刺さる鋤になって、少しずつでもならしてゆければと思う。


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めざめる。しらすトースト。これは読んでいるブログの書き手の朝食としてよくでてくるもので、その単語を見かけるたびに食べたいなと思っており、さいしょに見てから数ヶ月経ったいまようやくしらすを買ってきて焼き上げた次第。ベリうまい。マヨもかけてトーストした。読みかえしてみるとオリーブオイルをかけて焼いているようで、次回は真似しようと思った。外は晴れ。雪かきをする必要はなさそう。

妹がようやく『チェンソーマン』に手をつけたので(ので?)、わたしも読書。『デザインの種』。いつまで読んでるんだという話だが、いつまでも読んでいくのだ。9巻まで追いついてきたのでひと通りチェンソーマンの話をし(好きなキャラ、作品のどこが好き、どのシーンが好きetc.)、ドロヘドロもおもしろいんだよとアニメを流すも、おもしゃぐねとテレビから目を離し、スマホに吸いこまれていった。

いげちゃんのインスタライブをラスト数分。かわいすぎか??? はじめて写真集を買ってしまうかもしれない。いや、買う。これがアイドルにハマるひとのきもちかと一瞬おもうがそれとはまたべつの気もする。なんでもいいがそのような感情のうごきかたをおもしろがる。

夕飯。豚と大根ともやしの酢味噌山椒炒め。ほか惣菜。