桁をあわせる/遠いところから乗ったことのないものに運ばれて

なめられがすごい。

目覚めると腹が痛く、両親はラーメンを食べに行くというのについていくことができなかった。昨晩ひさびさに酒をガブガブ飲んだからだろうか。プリキュア仮面ライダー戦隊もののニチアサセットを鑑賞したのち布団でぐったりし、夕方ころに起きだして妹のリクエストでミルフィーユ鍋をつくる。豆乳と味噌ベース。昆布茶、酒、醤油、ごまも入れる。具材は豚バラ、白菜、長ネギ、舞茸、しめじ。水気がすくないので味が濃い。肝心の妹は今日は外で食べてくるというので、ひとくちふたくちつまんででかけていった。いち土鍋を平らげてしまったので、余った野菜と肉でもうワンセットつくっておく。ラフランスのうち、ひとつを切って剥く。よく熟していてうまい。

だらだらしてしまったときの罪悪感について。だらだらすることがわるいと思わされているこの認識の枠組みをぶちこわそう。だらだらしながらたのしく生きのびていく方法を自らの生をもって実践しよう。ときおりやってくる不安は、不安でない。フアン、フアン、フアン・ゴイティソーロフアン・ルルフォ。フアン・フエンテス

深夜から朝方にかけて制作。書きだしたpdfの山を見ながら、作品はこのようにできあがっていくのだなという、まるで他人のような目線と思考が生じた。いくつかのシリーズを並行してつくっていくつもりだが、それぞれ別様のワードを付し、判型においても異なるおおきさのなかで造形と構成をおこなう。逆に判型をまいかいずらしていくシリーズも考えてみるか?と書きながら思った。判型への感覚を養うことはレイアウトにおいてひじょうにたいせつなことである。

前回の無化報あたりからインからアウトへのスイッチが入ったようで、読んだり観たりがおろそかになっている。うまいバランスを探りたい、などと思うが、そんな均衡を保つ必要なんてあるのだろうか。読みたいときに読み、観たいときに観、書きたいときに書き、つくりたいときにつくる。これがいちばん健康的ではないか。そのようにして生きることの至難を思う。


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肉とじゃがが入っておれば肉じゃがなのじゃ


数量化と属性化への抵抗的な姿勢をもつこと。昨日のマッチングアプリの話もそうであるが、そうしたネオリベ的なマインドへの警戒心がないために、noteで炎上しているホームレスに対する記事のようなものいいが見逃されることになる。クリック率だのコンバージョン率だのプレビュー数だのクソのような数字にかこまれて生きていれば誰しもそんな脳みそになってしまうのだろうし、SNSのいいねも同様だ。だが、いまの社会で生きていこうとする以上、その効力のおおきさを無視して生きることはむつかしい。ワニウエイブと高島鈴が立ちあげた「ALTSULM」というwebサイトの記事が示唆に富む。

3時間仮眠するつもりが6時間寝てしまった。