マーキングシールの貼られた場所ばかりなのですか?

巡回ブログにまわる時間がとれず、読めずにいる記事がたまりはじめている。とはいえ、こうして制作的な領域において読んだり書いたりにじょじょに本腰を入れることができはじめているのは、単に〆切がちかい(というよりも当初の目標は過ぎてしまったのだが)だけではなく、テキストにまつわる依頼の連絡がとどいたことも理由としておおきくあって、わたし自身の自発的にうごけない体質を再認識する事態となっている。かといって、あらゆる他者の存在はうっとうしく、めんどうなものとしてもあるわけで、そのジレンマのなかでどのようにして制作の意欲を培っていくかが当面の問題だ。衣食住をおびやかされるおそれのない生活で、パチャパチャやっている場合ではない。金になるかならないか、という点を重きに置かなくていい貴重なこの期間に、ものをつくる時間をくりかえし自らの身体に通過させていく必要がある。

いちにちを回転させることはできず、夕飯どきになって目覚める。昨日ののこり+なめ茸豆腐で一食目。シャワーを浴び、武田百合子富士日記』の上巻でエンジンをふかしはじめる。数頁読み、ライヒを聴きながら執筆。でてくるのがおもんない文章ばっかでイライラしてくる。が、とりあえず先にすすめる。出来はともかく筆のすすみ自体はいままでになく好調で、数量としてわかる文字数の増加がモチベーションを高めてくれる。深夜執筆のモードが身体にインストールされたのだろうか。2時ごろにチャーシューと梅干しと漬物で白米を食う。『アイデア』377号の座談を拾い読みしつつ、でてきた名詞を検索窓に打ちこんだりもする。

この家に住むひとたちは、自らの身体の立てる音にあまり自覚的でないのではと思っている。歩行音がうるさい。一軒家だからということなのだろうか。それとも単に音がひびきやすい構造なのだろうか。


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村田沙耶香コンビニ人間』を読む。おもしろい。たびたびわらう。非モテ文学だとは思わなかった。読んでいて、おれのなかのウエルベックが顔を上げるのがわかった。世のなかから「異質」として排除されがちな人物を主人公に設定し、彼女にとってはなんらおかしくもないことを「世のなか」の目によって断罪し、嘲笑するのを、読者のわたしもたのしむ、加害的な小説という側面がある。すぐれた文学は加害性を引き受ける倫理のもとで成立しているとわたしは思っているので、それに則しても秀でた作品だと思った。このブログでもたびたび言及しているわたしの嫌悪する「普通」「常識」「当たり前」といった語群に対しても、そうした概念のもたらす悲惨さを描くことによって、その排他性を明らかにしている。

中盤、あからさまに「不審人物」(あるいはキチガイ)としてあらわれるくたびれたスーツを着た中年男が、「半コンビニ人間」のようなかたちで描写されているのが効いていて、読みおえる頃には末恐ろしいきもちになった。ラストのふっきれがきもちいいってほんとうか?とアマゾンのトップレビューを読んで思った。読むことを並列させるたのしさがある。