100歳過ぎてからの性転換

ひとと住んでいると風呂に入るタイミングが自分の思い通りにいかず、ひじょうにささやかではあるがストレスの種になる。もう1時をまわっているというのに妹の長風呂の所為でうごけず、なおかつ洗濯機と乾燥機をまわす必要があるので今日は朝までコース確定の様相。PCで記事を書きはじめたらスマホから見ると文字がデカくなってしまった。以前にもこんなことがあったなと思いかえす。4時頃まで執筆。

 

よだれをだらだらにたらしながら起床。飯を食いつつ、洗い物。そうこうしていると父が帰ってくる。コロナの影響で勤務時間が短縮されているのだ。テレビの大画面でyoutubeをひらき、釣りの動画を見ながら寝落ちするのが日々のパターンだというのがこの半月でわかった。増田などで目にする「帰郷したら親がネトウヨになっていました」パターンよりはまったくもってマシだが、その内容はさておき、声を張り上げておけばいいだろ系のやかましい発語とチープでヘボい編集によってつくられた映像を浴びている親のすがたを見るはあまりたのしいものではない。寝息を立てはじめたのを確認してテレビの音をミュートにし、代わりにPCで音楽を流す。

 
夜、ラーメン。福島のつけ麺と、山形の辛味噌ラーメン。どちらも自家製チャーシューとネギ、ほうれん草トッピングで。うまい。辛い。
 

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起床、チャーシュー山椒うどん。PCの前に向かうも、明るい時間はあまり作業は捗らない。夕飯は長芋の唐揚げと、キャベツ・じゃがいも・冷凍餃子・そせじのタバスコチーズ和え。ビールも飲む。しばらくデザインのための素材集めに精をだす。
 
『文藝』の秋号と冬号を交互に読む。宇佐見りん「推し、燃ゆ」を最後まで読みおえる。「推しが燃えた」というキャッチーな一行からはじまる本作は、前半発揮される描写力にけっこう期待させてくれる作品だと認識して読みすすめていたのだが、後半になるに連れてしりすぼみな印象がおおきくなってきて、そうなってしまうんかい、という着地をわたしのなかで見せることとなった。冒頭、巧さをおぼえていたはずの文章表現が、後半になって「海水をたたえた洞窟に、ぼおと音が鳴り響くような気味の悪さが身体のなかをただよっていて、それが空腹を通り過ぎたあとにも似たえずくような痛みになって胃をつつき回した」というような作中人物よりも作家自身が出張っているようなものが増えてきて、けっして嫌いな文体ではないのだがあまりの頻出に胃もたれを起こしてしまった。唐突とも思える「海水」には、推しのイメージカラーである「青」が踏まえられているのだろうが、上記の表現を含めた最終盤に連打される「青」は、主人公の推しに対する執着とあらわれとしてではなく、作家の凝らした技巧としてわたしの目に映ってしまった。ほか、主人公の父がおっさん構文の使い手であることがわかるシーンなど、現代的なユーモアをおもしろく読んだ。