すんでのところでなにすんでい?

文を読まない、読めないひとに対する怒りをどうしたらいい?とそうしたひとたちのふるまいを見かけたときに思ってしまう。わたしだっていつそっちに落ちるかわからないのに、こんなことを考えてしまうのは傲慢でしかないのかもしれないけれど、なんでよ!ときもちが火を噴く。

「あしたのひかり」展@写美。まいとし行っている「日本の新進作家」シリーズのあたらしいもので、今年はまあまあな感じ(ところで、この「まあまあ」という表現、あなたはどのレベルの「よさ」のときに使いますか?)。作風のバリエーションに力点を置いている気さえするほど5人の作家の向く方向がちがい、展覧会のタイトルとして象徴化されているテーマがぼやっとしているので、そこをおもしろく思えるかどうかが全体の印象を左右するのでは。比較的好みの菱田雄介は、以前kanzan galleryでも韓国/北朝鮮のボーダーに焦点をあてた展示を観ていたが、今回は福島やレバノン、香港といった他の地域にも目を向けており、その「境界線」が拡散化してしまったように思えた。だが、その状態こそが「いまの時代」のありようなのかもしれない。

先に「5人の作家の向く方向がちがい」と書いたが、この展覧会は「東北」をひとつの出発点として考えることが可能だと思った。岩根愛はまさにその地を北上するかたちで作品をつくり、赤鹿麻耶は架空の「氷の国」を出現させようと試み、菱田雄介は北海道を含めた東北の地へまなざしを向け、原久路+林ナツミ放射能汚染への不安をきっかけに九州に移住し、鈴木真弓は津波で流されてしまった両親の写真館を作品のバックグラウンドに敷いている。いまを生きるわれわれの生に横たわるその存在のおおきさに、わたしはすさまじいきょういを感じる。じっさいにその地で身をもってふるえを体験した者として、わたしもいつか明確なかたち(いままでそうしてこなかったというわけではないが)でそれをあらわすときがくるだろうことを思う。


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シネマヴェーラで『炎628』。観おえたあとしばらくしてから、いやあすごい映画だったなという感慨が浮かんでくる。思いかえすたびに、そのすさまじさがよみがえってくる。以下はついーとした感想。

炎628、独ソ戦の舞台となったベラルーシの村々での殺戮をモチーフにした、きょうれつな反戦映画。下方の泥濘と上方を覆う深い霧のはざまで、パルチザンに身を投じた少年は戦争のげんじつを嫌というほど思いしらされる。飛び交う蝿、叫び、爆音。怒りと憎しみにみちた銃弾が貫く逆再生の行き着く先よ!

まず音がすごい。一瞬しか見せない死体の山のカットもすごい。直接的なゴア表現もいいけれど、そうでないやりかたにわたしは好感をもつ。公開以後、すでにさんざん言及されていることではあるが、やっぱり主人公のファーストカットとラストカットの顔貌の変化には目を瞠るしかない。

夜、しめじと豚バラのしゃぶ。ホワイトベルグ。きもち程度のかつお節でだしをとって食する。2杯(?)目は卵も追加。酢を入れて味変もする。なんだかしめじが苦くてbadなきもち。滝のように汗がこぼれ落ちる。ごはん食べて汗だしてシャワー浴びるってまいかい書いてる。まいにち同じような日を送っている証拠。ゆるせない!

いつの間にか爆睡していて、21時ころ起きる。からだがだんだん貧弱になっている気がする。体力がない。