早稲田松竹を選択。今年初の日焼け止めを塗って外出。はやめにチケットを購入し、ブックオフを冷やかし、購入しようか迷う本にいくつか出会うもこれ以上ものを増やすのはやめろの意志がきちんと顔をみせ、何も買わずに店をでる。喫茶店で1時間ほど読書。インゲボルク・バッハマン『三十歳』を読みおえる。めちゃくちゃよかった。後半のこれもおもしろい、これもおもしろいの連続がすごかった。扱われているテーマがどんぴしゃだし、それを描く文の質感がまたいい。
上映中、なんどもスマホをいじくりたおしている年老いたおとこがおり、心底地獄に落ちてほしいと思った。生きたまま舌を抜かれてほしい。指と爪のあいだに針を一本一本、これ以上入りきらなくなるまで時間をかけて投入してほしい。熱した鉛を耳の穴に注ぎこんでほしい。鼻の穴のいちばん奥まで差しこんだ細い針金をつかって72時間かけて穴をひとつにしてほしい。
夜、水菜とひき肉の焼きうどん、プチトマト入り。ブラッディメアリも飲む。トマト食べてれば病気にならないってむかしなにかできいたかよんだかしたことがあるよ、医者が青くなるって。
映画は『風の電話』のほうが好みだった。が、岩井俊二のほうも大学時代にさんざん好きそうだのなんだのいわれたので、ほかの作品も掘ってみたいと思っている。リリイシュシュとかスワロウテイルとかね。ぼんやりとした感想も書いておくと、『ラストレター』のフェティッシュともいうべきこまやかな所作のリアリティが好きだった。とくに子供たち。廊下をすべるさまや、法事の折のまわりの様子を気にするさまなど、注力する箇所がひじょうに「わかる」というように感じられた。手持ちカメラの多用もあって、小林啓一の影響源のひとつなのだなということも実感をもって把握できた。
きもちわるさとエモさの紙一重をゆく、積年の想いのあらわれ。文通という最大のモチーフも相まって、小説原作ということのわるさがでている気がしないでもないが、反復のクドさを感じるまではぐいぐいとたのしく観れた。あと、どっちがどう寄せているのかわからないが、福山雅治と神木くんのかさなりぐあいがすごいよかった。松たか子の狂気もよかった。手をにぎるところとかナチュラルな奇人ぶりがすごい。ワンシーンしかでてこないトヨエツの存在感もやばい。おそるべきことに、わたしがちゃんとトヨエツの演技をみたのは本作がはじめてである。そのよもじのインパクトしかしらなかった。
『風の電話』は、西田敏行が福島弁(というよりも会津弁)でしゃべってるすがたを目にしている、耳にしているだけでむしょうに涙がでた。西島秀俊が実家帰ろうかなあみたいな台詞をいうが、いまの自分の状況をかさねあわせてほんとにね、と思ってしまった。でも、西島秀俊自体の演技はあまりピンとこず。深刻そうな顔つき一辺倒、というように見えてしまったのだった。
映画のつくりかたが好きなのだと思った。即興うんぬんというよりも、じっさいの関係性がその内輪性抜きに映像に反映されることの、親密な空気の発露を好ましく思う。これは弟子筋にあたる五十嵐耕平の作品にも受け継がれているように感じる。
あとはもう実家に帰ろうと懸命に行動する低体温なモトーラ世理奈のすがたをみていればよい。雑誌ではそのすがたをよくみかけていたが、スクリーンに映るすがたは予告を抜いてはじめて観た。うまさはないが、オーラがある。それは稀有なことである。であうおとなたちはみな食べものを食え食えと彼女にすすめるが、まさにそんな感じにさせる存在を画面に成立させていた。気になったのは、食事のシーンが多い割にはハルが何かを食べる場面はそれほど映されないことで、つまり飲みこむことのできないげんじつがそこに横たわっていることが暗示されている。
こまかなところ、叔母を発見するシーンの音がきょうれつだった。とつぜんのノイジーな整音。モトーラ世理奈の泣き叫ぶ声が、友人のNちゃんに似ていてわらってしまって没入できなかったのがもったいなかった。顔は似ていないが、骨格が似ているような気もし、骨が似ていると声も似るのだと以前にもなにかの機会に思ったことを思いだした。
さいごの長回しを長すぎではと思ってしまうその心性までもを射抜いてくるような、そうした切実さのあるラストシーンだったように思う。そののち、画面奥を横切る2台の車が、まさに通信の使者として端から端までをつないでいくようだった。